たまに更新されていない、あるサイトを見にいく。
もう5年もそのサイトは更新されていない。
FLASH動画が前にあったが、それもネットでは見られなくなった。
残っているのはFLASHに残された音楽プレイヤー。
唯一それだけを楽しむことができる。
たまに思い出して短いループサウンドを聞きにいく。
昔見た記憶を思い起こして、その音楽が流れたシーンを脳内で再生する。
かつてきちんとした建物だった廃墟に思いを馳せるように。
結局それは売れなかったから、後が続かなかった。
厳しい現実を前にして残った残骸のようなものが、それだけれど、運よく当時動画を見ることができた。
チャチと言えばチャチかもしれないけれど、音楽と簡単なFLASHアニメだけで表現され、台詞は一切なかった。
その手法がとても好きで、何度も繰り返して見た。
多くの人の心には響かなかったかもしれないが、自分には大きく響いて今も残っている。
他人から見て、つまらないものが自分の心に残ったり、琴線を打ったりする。
どうして、とは説明できず、ただ心が反応したまま受け止める。
人を率いる立場になって、自分のことばかり考えていたが時折他人のことも考えるようになった。
今までどれだけ独善的でいたのか、よくわかる。
いざ考えるとなるとあまり思いは巡らないが、それでも少しずつ考える。
他人から見てつまらないものを、個人は大事にしていることが多い。
だいたい頭で容易に想像できることを「理解している」と勘違いしがちだが、どうやら「理解」というのは「行動できてこそ」なのだなとしみじみわかってくる。
「行動」ということを考えると、重い言葉だし、口に出すということも重い。
多くの人はやってみないとどれだけ大変なのか、どれだけ自分の考えに穴があったのか、ということを理解できない。
いつまでも考えているだけでは、その考えに大きな欠陥を残すことになる。
当事者じゃなければ、それに挑戦している人間でなければ、まったく理解できないことだってある。
当人にとっては理解と言うよりも、条件反射に近い反応だって示すことがある。
そんな一つ一つのことを考えながら、感じながら、集まってくれた人たちに活躍の場を提供する。
シナリオは自分が作っているし、もらった台詞や音声ファイルを組み立てていくMIX作業は自分がやっているから、もし面白くなかったら全て自分のせいになる。
それでも、誰か一人の宝物になればいいなと想いを込めている。
心理学用語で「未完の円」という言葉があるそうだ。
円をしっかり描いている方と、輪郭が一部切れている方、どちらが気になるかと言ったら、ほとんどの人が切れている方が気になると答えたそうだ。
その結果から、完全なものよりも、不完全なものの方が気になるという作用らしい。
もっと言うと「完全な円の状態を知っているから」こそ気になる現象だろう。
自他を含め、一つ気に入らないものが見つかると、とことん気にならないものを広げていく。
よほどの人間ではない限り、その些細な悪意を止めることはできない。
挙句の果てには「どうしようもないやつ」という烙印を押す。
「未完の円」のように「自分の理想像からその人間を捉える」からだろう。
それぞれ何かしら癖のある人たちが団体を構成している。
逆にそれが楽しい。
私はあまり自分の趣味を他人に広めるつもりはないのだが、唯一創作という独善的かつ想像的世界だけは他人に示していかないと自分が生きている意味がなくなってしまう。
このことは他人には理解できない感情だし、やっている本人にしかわからない微妙なものもたくさんある。
そう考えると、その行為の真っ最中の人間は誰しも自分のようなものを持っているということだ。
時折、理解はしてあげたいが、失敗するから止めたいというのもある。
年を取っていくと「失敗込みでの経験」という過程を重視して人を見るため、あまり言うことがなくなってくると聞いたことがある。
それができたらよほど立派な人間なのだろうが。
自分にとってくだらなく感じることは、他人にとってもくだらないものであるとは限らない。
そんな当たり前のことさえ意識せねば常日頃忘れ去ってしまう大事なことなのだから、どれだけ「普通の配慮」には訓練が必要かと思う。
それと同じように、作品を作った時、どれだけ相手に届くかは未知数だ。
まったく届かないかもしれないし、ほんの少しだけ届くかもしれないし。
全ては自分の中から始まって、全ては相手の中で終わる。
この当たり前のことが時折怖くなる。
他人にとってただのゴミにしかならないのではないか、とか。
でも、もしかしたら・・・
誰かの宝物を作れるよう、歪な円ながら進んで行こうと思っている。
更新の止まったサイトで同じループ音楽を聞きながら。
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