今日、東京で感じたことのある違和感を思い出した。
ショッピングモールの中で両手に装着された杖のようなものをついて、わりと棚のすぐ側で「すみません。すみません」と言い続けている人がいた。
男性の老人だったのだけれど当人にとっては結構大きな声だったんだろう。声は周囲の音に掻き消されそうだった。
日曜で、お盆近くだというのも影響しているのだろうか。
モール内は賑わっていた。
自分は通り過ぎようとしたが、あまりにも連呼しているので、おかしいなと思い少し通り過ぎたところで振り向くと、こちらに気がついて「すみません」と目を合わせて言ってきた。
当然普通だったら「店員を呼んでいるのだろう」という感覚で見るだろうし、過ぎ去る多くの人がそう思って気にもとめなかったのだろう。
一歩も動けずそこに立ち尽くし、長い時間だったのか短い時間だったのか、その老人の言葉を気にもとめない買い物客たち。
以前東京の電車内、夜の新宿の通行人、駅のホームで列車を待つ人の孤独な背中や瞳、この雰囲気をふと思い出した。
電車内で隣に座りあっているもの同士、皆他人でまるですぐ横に壁でもあるかのような佇まい。
新宿。誰かが倒れていても声もかけない。酔っ払って電話をしていたからなのだろうか。触らぬ神に祟りなし、という扱い。路上駐車違反で人目も気にせず怒鳴りあう警備員と運転手。
そしてとにかく寂しそうな背中。瞳。少しギラギラしすぎて怖い瞳とか、他人行儀という範疇を超えた見知らぬ人への感覚。
それらのすべてに、札幌という都会から行っても違和感を感じたことがあった。
このことを指摘すると東京に長年住んでいる人は「それが気遣いじゃない?」と言った。
人同士最大限気を使っているから、隣人に迷惑かけないように、干渉しないように人との距離ができているんだと。
この話を思い出した。
例えば今日の話でも、普通の人だったらまだしも、違和感がある。
まず老人で両手に装着型の杖をつけていたということ。
何度も「すみません」と店側のほうではなく、外の方向にむけて叫んでいたということ。
人が多いだけに一分でも何十人という人が通り過ぎていたということ。
これらの条件が重なっていても、気がつく人はいなかった。
結局老人はカートが欲しかったようだ。
どこから入ってきたのか、だいたい入り口にはあるがない場所もある。
カートまでの距離はそれほどでもなかったけれど、老人にとってはそれ以上探索するには辛い距離だったのかもしれない。
ひとまずカートを持ってきて渡すと感謝された。
もしかしたらたまたま、あまりないようなシチュエーションだったのかもしれない。
自分が骨が折れてあからさまに装身具と松葉杖セットの時は結構他人優しいなと思った瞬間は多々あったから、ここは都会にしてはまだあったかい部類に入るんじゃないかと思ってる。
でもこの札幌も東京のような感じになっていくのは嫌だな。
ああいう東京のような乾いた感じにはなって欲しくない。
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