一昨日、地元の出版社に「新・人間失格」の三つに構成されたうち、最後の「晩年」の部分を中編として仕上げたものを持っていった。
自分ではここ数年の芥川賞のレベルなら、これで取れると言って来たが、当然担当者は信じてくれない。
怪訝そうな顔をしながら、「どうしてこんなたわごとに付き合わないといけないのか」とでも言わんばかりの目だった。
なんとしても五月中までには出して欲しいとの要望を申し上げてきたけれど、「最終的には上が売れるか売れないかで判断するので厳しい。文芸春秋だって当然利益を見越して賞を選ぶのだろう。よほど非の打ち所のないものでないと」と言われた。
正直、新人にありがちな、「自分の作品は一番」というものではなく、客観視して言っています、ということを申し上げた。
「来週までにはお答えいたします」とのことで、本来なら一ヶ月かかるところを、考慮してくれて最大限できることで対応してくれた。
自分たちのできる権限での限度、精一杯の努力がそれにあたるのだろうと思う。
帰る途中、編集者が自信を持って上に物を言えない出版社なんて、編集者がいる必要があるのだろうか、と妙なことを考えてしまい、「もしかしたらダメかもしれないな」という考えが頭をよぎった。
本を読み込んでいる中年のおじさんが知り合いにいるのだが、滅多に本を褒めない人で、「こういう心理の葛藤はなかなか書けるようで書けないよ」と評価してくれた。
自信になった。
その人に電話して「今置いてきました。編集者に自分の一存じゃ断言はできないと言われました」との内容を伝えると、「本を買って来いと言われて、はい売ってませんでしたで帰って来るのはただのガキの使い。大人なら売っているところを探して買ってこないといけない。買えるまで求めるのが大人だ。がんばれ。できることはなんでもやれ」と言われた。
悲観的な考えが頭をよぎっている中、昨日友達に電話をすると「大丈夫だって。ちゃんとできるって」と何も読んでもいないのに言われ最初は「なんでそんなこと言うんだろ。何も知らないのに」と思ったけれど、ふと自分の考えが間違いだということに気がついた。
自分の書いた話は「言われて、それを当然だと肯定していった男」の話だ。
つまり、ネガティブなものも「そうに違いない」と信じきって死んでいった。
これを一種のアンチテーゼとして掘り下げていったものなのだから、自分が「ネガティブの壁」を作ってどうするのだ、と思った。
「大丈夫だ」と言ってくれた人のほうが正しい。おっさんも正しい。悲観的になっている余裕なんてないのだ。何のために半年近くもやってきたのだ。そう思った。
今までの自分はやれると信じても自分のことを疑っていた。きっとダメに違いない。きっとダメな方向に傾くのだというイメージばかりが先行していて、自分の成功のイメージをのびのびと想像することができなかった。
否定され、けなされ、「ああそうなんだ」と信じ込んでは自分を追い込んだ。
だが違うのだ。
信じること、イメージすること、必ず、いや、もう成功は掴んでいる。
その出現のために最大限の努力をするだけだ。
今までは文章との戦い。
これからは最後の自分の作り出していたネガティブの壁をぶっ壊すために、努力する。
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