この気持ちはもしかしたら今の状況だから感じられることかもしれないので記しておく。
「功を焦る」という気持ちがあるが、自分の場合たいした努力もしないのに、いちいち大きなリアクションを期待する。
お世辞で囲まれたいわけではなく、どこにいるか実感として得たいのかもしれないし、自分の労力に対する価値を得たいのかもしれないし、怠け癖が出ているのかもしれない。
ただ、本当にこの「功」というものへの憧れというか、執着のようなものがあり、引きずり込まれて成すべきことが歪められてしまう。
何をしなければいけないのか、そんなちょっとやそっとでは「功」など得られるはずもないのに、すぐに何かの形で目の前に現れて欲しいと、手を伸ばす思いで切に願っているのだ。
いくつになったら「功を焦る」気持ちが抜けて、落ち着けるのか。
集中力がなくて、気が散りまくり、自分の労力以上の成果をいつも期待し、「理想」がいつの間にか「自分の評価されるべき状態」となっている。
やるべきことはわかっているし、目標も道筋も見えているというのに途中の歩みに思っていたものとは違う焦りや体力のなさや集中力のなさを感じて、刻々と過ぎる日にちに「ああ、自分は何をしているのだろう」と考えたりしてしまうのだ。
これが「目的論」みたいなものから言えば愚かしいことはわかっていても、つくづく弱い感情が歩みを止まらせ、考え事を多くさせ、目の前の道のことを考えてただ歩いていけばいいものを、今来た道やこれからの道のことや歩いてきた道はいかにあらねばならぬと小賢しくまったく自分にとっては意味を成さない作業をしている。
そもそも他人がする「評価」などいちいち気にしていては「オリジナリティー」を出さなければいけない場所では最初の段階ではほとんど無意味であり無価値であり、方法論技術論などにおいて効果を発揮する「アドバイス」も「評価」においては、「主観の集合体」になることはわかっているはずなのに、また見失ってしまいそうになる。
なんてったって、こんな日記を書く時間があれば、あんた読書したり作品作ったりしなきゃいけないでしょうが、ともう一人の自分が言うわけですが、どうにも「分析屋」になると、「この日本が」とか「読者の環境が」とか「社会が」などとろくでもないことを言いがちになり、文句があるなら実力で変えなければいけないものをグダグダと文句だけ言い、つくづく怠惰になり、煎餅を食いながらテレビに向かって意見を言うような存在になってしまいがちになる。
それで今回も誰の役にも立たない日記を書いてしまったのですが、「功を焦る」という感情について、何度も実感して「遠目に山頂が見えてからが、はてしなく道のりが長い」とわかっているはずなのに、改めてうじうじと「功」についての執着心と執着心による視野の狭まりに、意識を向けて戒めをする本日なのでありました。
遠目に山頂が見えてからが、はてしなく道のりが長い。頂きにたどり着くためには、遠回りに歩いて進んでいかなければいけない。目標地点が高くなればなるほど、技術と経験が必要になり、危険を察知する感覚に素直に従える潔さ大事になってくる。「あともう少しで」の欲が命を狙って取りにくる。
「過去を定義できる人はいても、未来を定義できる人はいない」。だったら君、文句を言う前にやるべきじゃないのかね。
結局これなんだよね。
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