まさかね、東新宿でデモやってた会社の傘下にある事業で働くことになろうとはね。こいつは因果だ。そうか。僕は長い時間がかかるんだろうけど、運命の手の平にあるわけだ。悟ったよ。
そうなのか。自らの生を呪わなくていい。
まだ神の手の平にいるのなら、自分の生きている過程を信じられる。まったく、思ってもいない偶然が積み重なっていく。師匠に出世するコツは運だと聞いたけれど、自分の運はまだまだ途切れていないんだな。
やっぱり僕は遅いんだな。
でも必ず辿り着く。
確信した。
まだ自分は大きな力に導かれている。
追記:
居酒屋の不安定さと未来の予測不可能な時代になったことで居酒屋にお別れを告げ酒に頼らぬパスタ屋で働くことになったけれど、3月下旬に新宿東口で不遇によるデモを行っていた人の眼の前の食堂の親会社がシステムを持っている飲食店で働くことになろうとはね。
入って1か月少し、個人事業主(フランチャイズ店)としてやっている店だけれど唯一いた社員さんが鬱になり働けなくなり自分が店長を支える立場になってしまった。
店長の奥様に「あなたがいなかったらどうなっていたかわからなかった」と言われた。
まだ半分も覚えていないのに状況が状況なだけに不思議な感覚。
人が沢山いたら出来る人と比べられて「あいつは仕事ができない」と言われる世界で、初めて心から人に感謝されている。
つまりは因果とはいえ、やはりここに居るべくして居るのだろうなという実感はますます高まってくるのだった。
神の手の平にいるというのは、何かを考えるよりもまず与えられているのだという運命感に依るものなのだ。
そして創作パスタながら、せっかくパスタやるのだから「イタリアンって何?」を勉強するつもり。
鬱に関して言うと少しだけ詳しい。
十年以上前に身内が鬱が深刻化した中で首を切った。
でも当人は切ったことは覚えていないし遺書らしきものもあったが、よく覚えていないようだった。
鬱はこじらせると年単位で治療が必要になる。
普通の人間が「気分が落ち込む」というレベルでもないし身内が体育会系の「鬱になるのは心が弱いからだ」という考え方だったのも首を切り救急車で運ばれたのを境に考え方を改めた。
もしあの時身内が死んでいたらもう罪悪感で生きてはいられなかった。
しかしその時の経験を元に店長に鬱病の人の扱い方のアドバイスができる。
今ここにいることの因果とは、そういうもろもろのことが重なってきていているからに他ならない。
だからこそ、もう少し生きていようかという気持ちにもなるし、この先に待っている因果の結果も見届けていきたい。
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