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Webブラウザでの日本語縦書き表示、順調に進行中。年内には実装の見通し
これまでの電子書籍の動きというのは、ようやく紙と対等な条件をそろえるというところだった。
それで、敷居が低くなればなるほど、そこに参入してくる人たちがどんどん多くなってきて、混乱状態に陥る。
さて今年は初めから意気込みが何か違ってきていて、3日坊主だったのが衰えない。
というか、今年こそは今年こそはで過ぎ去ってきた時間にもう耐えられない。
今までのままじゃダメなら数倍に進化するしかないという意気込みなのです。
ということで、余計なことをしゃべりましたが、たぶんこれからの小説の世界は「小説家」が独占していた「リアリティ」というやつを、素人の現場で働いている人間たちが圧倒していくと思うのです。
いわゆるその職について長年やっている人しかわからない、というような内容を素人さんがバンバン書いていく。
その上占拠されるジャンルは詩、ファンタジー、私小説、取材に基づかない小説などなど、文才のちょっとある普通の人が誰でも書けるものが次々と量産され、今出版している小説家のほとんどが死に絶えることになるでしょう。
その上でますます「隙間産業」となる、この分野で生き残っていくにはどうすればよいのかというと、常に「誰かを巻き込んで参加させられる吸引力」を持った人間のみがこの世界で成功していく。
つまり、題名の「ライブ感覚」を生んだ人が、これから生き残れる素質を持っている人間なのですね。
それで、通常の人はだいたい作って感想もらっておしまい。
次に書いてまた同じことやっておしまい。
インプットとアウトプットの繰り返し。
しかしこれでは「芸」にならないし、「芸術」にも程遠い。
あらゆる「作品」と呼ばれるもの、特に優れていれば優れているほど「コンテキスト(文脈)」が多様に生成されていくものですが、この文脈をライブ感覚で作れるものが次の時代のキーワードになりますな。
これにはひとつの理由があります。
今現在の出版事業は音楽業界の歴史を追従しているとの見方があり、私も同じ失敗を繰り返していく可能性を多分に含んでいると考えています。
しかし「音楽」とちょっと違うのは、元々「音楽」は「形のないもの」であることを考えないと、見誤ると思うのです。
つまり、音楽はyoutubeも加え、無料で流れ出て体感する人が増えた。
その分元々形のなかった音楽がCDなどの目に見える物質を離れ、体感型へと戻っていった。
これは音楽CDなどの売り上げが格段に落ち、ダウンロード販売も成果が伸び悩んでいるのに対して、ライブの収益は格段に上がっている。
これは皮肉な形ではありますが、電子化によって音楽が元の形に戻ったという見方をしてもよいのではないかと思うのです。
そして、本もまた、私がかかわるのは小説などの文芸の世界ですが、この文芸の世界も、電子化によって元の状態に戻っていく感じがしています。
そこで考えなければならないのは、本ってなんだろう、いやいや、そもそも言葉って何かな?
そんな超基本を通り越して、当たり前すぎて誰も考えなかったことを、もう一度再考する必要性が出てくる。
言語を使って行われる、我々の思考や、直感的な行動。
元々、言葉とは「伝えるための道具」です。
自分ひとりで行動して誰とも出会わず意思疎通を図る必要性もないのならば「言葉」は必要なかった。
しかし伝える必要性があった。
高度な思考や社会を組み立てていくために言語が必要だった。
我々が言葉を他人に発する時は「自分の考えていることを伝えるため」です。
しかし文字だけで考えるとどうしても見えてこない。
よく考えてほしいのは、私たちは目の前の人の情報や自分が感じていることをすべて言語化しているでしょうか。
してません。
言葉が持っている意味そのものの裏側にはいろいろな表情や仕草や雰囲気、気温や湿度や天気や場所もすべて含まれて、ようやくひとつの言葉になっている。
それが「言葉本来の姿」なのではないかと思うのです。
ならば、言葉も電子化が進むことによって、この「本来の姿」に音楽と同様に戻っていく。
さて、困りました。
私たち本を書く人、特に小説なんて書いちゃうのだから、人とのコミュニケーションがうまくできない場合も多々あります。
だって、人とそつなく付き合えて世渡りができるのなら、わざわざ「小説・文芸」などという表現手段に頼らなくてもいいのです。
それくらいよわっちいし、内弁慶なのが小説家だったりするわけですね。
しかし、言語は限定的かつ感覚的だからこそ、逆にそれをパズルのように組み合わせて伝えることが楽しかったりする。
その限定的な感覚で楽しんでいるのが小説だったりしますが、作品に大事なのは「文脈」です。
つまり読者の「解釈力」を引き出してあげるのが「作品」として優れていると私は考えるのですね。
じゃあそういう多様な「ああ!」っていう感覚を与えていくにはどうすればよいのかっていうと、やっぱり本を通じての交流しかないと考えるのです。
電子書籍参入の人の多さにより、より「無感覚な小説」が増殖してきます。
本を通じての交流は、この無感覚な小説への唯一の対抗手段となるべきものだと思います。
ウェブでの見せ方もあるでしょう。
直接本屋などでしゃべる機会も設けなければならないだろうし、特にこれからはあらゆるコンテンツがその境界線をなくし、技術とともに融合と分離を繰り返しながら新しい何かを創造していきます。
クリエイティブな世界は、コンテンツの融合により加速度を増し、新しい時代に通じないものを物凄い早いスピードで食い散らかしながら増殖していくでしょう。
だからこそ、その世界に精通している人が大事だと思えるものを保存しておかないと、技術によりズタズタに分断されるのです。
本屋もきちんと「本って何だろう」「本のよさって?」ということを考えて、本を作る人間を巻き込んで本を買ってくれる人たちにドキドキや「ああ!」を伝えなければいけない時代になってきている。
いや、必然的にライブ的な感覚を取り入れざるを得ないという方向性になるでしょう。
だから我々も乗り遅れてはいけない。
今からしっかりと「本におけるライブ感覚って何?」ってことを考えて、読者が「ありがとう。よかった」と言ってくれるような本の面白みを想像していくべき時代になったのです。
ということで、言ってる本人やらなかったらしょうがないので、今年はちょっとずつやっていこうと思いますよ。
これからの作家は作家を中心としたひとつのチーム的な発想をしないと、他人を巻き込んでいくことなど到底不可能です。
ここからは蛇足ですが、コンテキストを含んだ連想型検索エンジン、どこまで進んでいるのか未確認ですが、感想など、読者が生成するコンテキストを集めて検索結果へと単語で表示したり、単語そのものが連動していく単語を類推して表示した結果に生まれる、単語(例:恋愛)+単語(例:幸福→幸福とは←悲しみ)での検索結果(例:=悲恋の小説 /読者感想まで連動させたらさらに繋がりが広がりリストアップできる)などが出てくると電子世界ならではの広がりを見せてくると思うと同時に、逆にダメなものも、このシステム応用できれば排除できますよ。
読者のコンテキストを検索エンジンにどう表示させることができるかがポイントですね。
追記:そう考えるとアマゾンって検索システムのアイディアほしがるはず。どこと組むんだろ。
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