人類にとって、その「愛」なる感情は、あまり難しいものではないのかもしれない。
しかし個人のレベルになると、これほど奇妙奇天烈で難解なものはない。
この人類の歴史上の数々の文豪が愛について語り、宗教上の人物が愛について実践し、そして無数の人間たちの数々のドラマが私たちの心を打ってきたが、個人のレベルで「愛とは何ぞや」を問われると、答えに窮する。
なぜならば、例えば私がいかなる「愛」を持っていたとしても、その「愛」が伝わらなければ、それは「愛情」として成立しないのだ。
と言ったって、私だって「愛」なるものを持ち合わせているのかわからないし、「愛ってなんですか?」と聞かれても、今のところは「どんなに憎んでも、嫌いになっても、最終的にはその人の幸せを願いたくなるような不思議な感情」としか言いようがなくて、様々な感情の遍歴をこうしてメモし、どうにも愛って辛いもんだなと思ったり、愛してくれた人のことを思い出して「愛情とは」を考え出したり、言うことはとても簡単だけれど、実行することは相当忍耐を必要とすることがわかったり、そして「忍耐」とは、まるでドラゴンボールの修行のように苦しくて、死ぬぎりぎりまで行くんじゃないかと思わされたりなど、今は「愛」のことを書こうとしても、なんとも薄っぺらな表現しか出来ず、情けない限りであって、これほど言うのは簡単なのに重苦しい言葉はないわけなのです。
そして、よく恋と愛の違いというものをまず最初に考えるわけですが、恋する人と愛する人とは、とても温度差があって、でも、もしかしたら、その愛すらも恋かもしれなくて、恋する人の中にも愛するものがあって、その成分の比率で、どうしても何かが合わなかったり、ぎこちなくなったり、確認しあうのに喧嘩になってしまったり。
恋が絡む愛と、何かを純粋に好きになっていく愛情はまた別物で、人が相手ですと、なぜこうも嫌な感情が混じりだすのか。
料理人は料理の出来が悪い人を怒りますし、役者だって手を抜く人には怒りますし、やる気がなければ嫌な感情も持つわけです。
はたしてそれは「愛情」の上に成り立つ感情なのか、それとも別の醜い感情があるからなのか。
今は人の醜さについてじっくりと考える時でもあり、愛情について考える時でもあり、そして実践において様々なことを学んでいく時でもあり、ようやく何かが見えてきそうな時でもあり、自分なりの愛情を背負って、器小さいなりに頑張っていこうかと思うのです。
愛とは、語るだけ陳腐になるものなのかもしれませんね。
だからこそ、強い人にしか抱くことができないのかもしれません。
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