面白いものを見つけた。
「俎上の鯉は二度跳ねる」は、ボーイズラブと呼ばれる、美少年同士の恋愛もの。
「1Q84」は、村上春樹の小説。
さて、何が面白いかと言うと、レビューである。
村上春樹といえば、昔から活躍していた小説家で、「春樹節」をだいたい予想して、「ああ、やっぱり春樹だ」というノスタルジックな気分に浸り、あたかも浸かりやすい温度の湯に満たされるような緩いファンタジー感を楽しみ、現代社会のギスギスした人間関係の苦しさから必死の呼吸を試みるための空気転換というのが、彼の作品の主目的なのではないかと思う。
空気転換をしたからと言って、部屋の様相が変わるわけではなく、浸かりやすい湯に浸ったからと言って、明日の運命が変わるわけではない。
村上春樹の小説は、ちょっとした逃避旅行をしながら、異世界から違う気分で何かを見つめなおすのにちょうどいい。
彼の小説たるや、人生を突き詰めていった百戦錬磨の大人が改めてテーマを捉えて考え直すようなものではなく、そこに今まで思いもつかなかった、いや、思いこそしなかった子供に、このようなことも考えなければいけないのですよ、と優しく問題の入り口へと導く入門書のようなものなのである。
逆を言うならば、忘れかけていた初歩的な問題点に立ち戻るためにも、村上春樹のファンタジー世界は重要なのかもしれない。
そのうえで、今更村上春樹小説にケチをつけるなんていうのは、「小説あまり読んだことありません」と豪語するに等しい行為であり、いちいち子供の素行にケチをつけて彼らに何も教えたがらないアダルトチルドレンと同等のレベルと見ていい。
読みなれている人は「ああ、またか」「見逃してやれよ、ハルキなんだから」と、批判している人たちを「どうしようもねえな」という気持ちで眺めているに違いない。
しかし、問題点は春樹の小説ではない。
各々のレビューにある。
「俎上の鯉は二度跳ねる」はボーイズラブという、恐らく通常の男はほとんど手に取りも興味もわきはしない、男同士の恋愛ものである。
小説ではなく、コミックなのだろうが(というか読んだことがない)、かつてこれほど熱意みなぎったレビューを読んだことがなかった。
だいたい読者は主に女性。
読んでいただければわかるのだが、この手の話にまったく興味がない私でも非常に内容が気になった。
特に読みこみ方が玄人の域に達していて、通常の書評のレベルを凌駕しきっている。
作品を何度も読み返してプロットの仕掛けまで読み込み理解し、小説ではないコミックであるにも関らず、下手な小説家よりも貫通力の高い比喩で作品をぶち抜き、そして各キャラクターが背負っているテーマすらも神を信じて疑わない命をも捧げる信奉者のごとく自らの心に宿し我が身のごとく共有し、そして何よりも語っても語りつくせない、こんな私の陳腐な言葉では足りない、この作品の至上の価値は伝えきることができないのだという切なさと、それでも断崖絶壁の向こう側の愛しき存在に必死に気持ちを届けたいのだという熱意の強烈なジレンマが感じられる。
そして作品の内容をも離れ、紙質やコマ割りにもこだわり、私はこの作品に出会うがために生きてきたのだという運命すらもレビューから感じ取れるとはいかなることか。
この作品のすべての存在こそ完璧でなければいけないのだという思い入れよう。
この作品はもはや作品ではなく、私の体の一部の痛みとして、喜びとして、愛情として、悲しみとして、そして糧として存在しているに他ならないのだとでも言わんとばかりのレビュー。
読んでいるだけで感動するではないか。
村上春樹ファンに告ぐ。
君たちはこれほどの熱意と語彙を持って、かつて春樹作品を賛美しただろうか。
いや、強烈な春樹ファンでさえ、このレベルに達することはできない。
これはそもそも作品が持っているポテンシャルのせいなのか、それとも春樹のファンすらも春樹を理解しきれていないのか。
それとも村上春樹と心中する気持ちはないのか。
恋は人を詩人にするというが、愛情すらもまた人を詩人にするようだ。
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