自分は100年200年耐えうるものはどういうものかということを常日頃考えている。
そして、それが真の芸術だと思っている。
自分のプロの定義とは「その職に対して震えるほどの恐れを知るもの」がプロたる定義だと考えている。
だからこそ、そこに謙遜の気持ちが生まれる。
職に対する本当の恐怖を知らぬものはプロではない。
私は、今小説を書こうとしている。
「小説を書く」という行為は、「現存している過去を誰もが見えないもので切り取る行為」ではないと思っている。
真の文学作品とは常に「未来を作るもの」であると考えている。
そして、芸術とは常に「未来を作るもの」であると考えている。
現代人は「人気」や「金」に左右される。
だが、そこに芸術的価値間や、歴史に耐えうるものを作ろうという崇高な観念はなく、すべてその場しのぎである。
私はここに真っ向から反旗をひるがえすことに決めた。
文章を書くことによって、人を見つめることによって、自分ができることとは何か、商業主義に翻弄されている企業ができぬこととは何かを、考え、そして何ができるかを考え抜いてきた。
作家になるとは「貧乏になれ」と心から決めよという人間がいるが、私は真に正しいものに金が流れぬならば、死んでもいいと思っている。
司馬遼太郎が言っていた言葉をおぼろげに覚えている。
それは、「革命」の定義だ。
第一に「理念を論じてそれに死す者」そして第二に「それを継承して行動し、挫折するもの」、そして第三にそれを教訓として「継ぐもの」・・・ああ、酔っ払っているからちょっと違うかもしれないけれど(たぶん、かなり違う)、私は第一段階の人間になってもよいと考えている。
私の理念と理想を継承するものが、それを成しえようと懸命に命を使う。
私は犠牲になる立場なのだと考えている。
私は、「己が生きるために命を使っている」のではない。
私は、「己がいかに人類に警鐘を鳴らしていくか」に重きを置いている。
私の生きる道、私の生きていかなければいけない道。
私は、日本人が見失った道を、少しでも照らしたい。
そして、人類が見失った道を、少しでも照らしたい。
それが、私の生きる運命。
そしてそれが、私の芸術を作る理由。
「歴史に耐えうるもの」
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