「何かと比べても意味はない」
これは人のことについて当てはめられることだと言われている。
何故って、人にはそれぞれ長所と短所があって、「長所のない人間はいないし短所のない人間はいない。だから他人と比べることなく自分の長所を信じて突き進めばいいんだよ」という、当たり前のように聞こえて確実にそうではない不条理な日本社会に生きているために、このことを考えるたびに心がねじ切れそうなくらい苦しくなり、「結局人の評価がないと食えもしないじゃん」ってところに考えが落ち着いて、成果の出せぬものは社会を恨み、成果を出せるものは悠々と強者の理論を語るという、弱肉強食で殺伐としたる今日この頃を生きておられる皆様、ご機嫌いかがでございましょうか。
それにしても考えれば考えるほど気づきはしても、どうしようもない社会システムの中で今日も一人でもんどりうっているわけですが、つくづく日本社会って人を部品のように見て考えるところがあるのではないかと気付き、「評価」というシステムそのものが、「いかにシステムの中で役立つか否か」を競っているわけで「システムの中で役に立たない能力や長所」なんて、軽んじられるわけですね。
まあ今日はくどくどと僻みを並べ立てたいわけではなく、ふと「人間らしいってなんだろう」と思い立ち書いているわけですが、作家は基本的には作品上では人間性をそのまま受け入れて書き立てるのが基本です。個人的に苦手でも嫌でも冷静な目で見つめる。
その上で作品上に出てきている人の価値観から一方の人間が虐げられたりということはあるかもしれませんが、殺人者でも狂人でも、そこに何かしらの人間らしさを見つめるわけですね。
よく昔の刑事ドラマなどで出てくるセリフで「悪いのはあいつじゃない。あいつを作り出した社会なんだ」みたいな感じで夕闇のわずかな光を拾い上げるというのが本来の文学ではないかと思うのですが、なにせそんなの売れない。
現実を想起させるような生々しさよりも現実を示唆させるフィクションのほうがずっといいわけです。
つまり「誰もお前の人生そのものなんかに興味持ったり感情移入したりするやつなんかいないんだよ」という薄情極まる当然の常識感覚でお話そのものを楽しみながら間接的かつ輝ける登場人物に自分の理想や感情を重ね合わせながら心を納得させる人がほとんどなのではないでしょうか。
自分はすっかり僻み根性が身に染み付いているのか何かと比較することをやめられず集中できなくて困っております。
まあちょっとした「呪い」のようなものだなと思っているのですが、「比較の中に本当の思いやりや冷静な目なんてあるのだろうか」と考えると、たちまち自分の軸がぶっ飛びそうになり、いてもたってもいられなくなるような不安感にバイクを盗んで走り出し行き先もわからぬまま夜中に校舎の窓ガラスを叩き割りまくりたくなるという衝動にかられ、いやはや困ったものだと30過ぎても18歳のようなエターナルドリーマーなファッキン野郎をやめられないわけです。
と、まあ冗談はここまでにして、「比較論の中には人間らしいぬくもりはない」というのはわかるとして(だって他者比較は長所と短所に優劣をつけることだから)、その先の「比較をしないと不安になる心理」はどこから来るのだろうと考えたいわけです。
ダメな人間は「比較をしないと不安に成るし比較をしてもダメな自分が浮き彫りになってもっと落ち込む」という悪循環を繰り返すわけです。
私のことなんですけどね。
少なくとも何か劣っている部分を強く意識して不安を感じるということは、自分の存在が脅かされる不安を持っているということで、褒められても褒められた気がしない。
いつも馬鹿にされているような気持ちになる。
結局は他者に対する強烈な猜疑心が埋め込まれていて、振り払おうと何しようと機械のように精巧に動いていくわけです。
こういうのって環境が大きいのね。
一度ネガティブスパイラルになるといかにそこから脱するかが最優先事項となります。
なんせ何をしても楽しくない、常にイライラする、他人の幸せを喜べない、などなど様々な呪いの電波を発する物体に変貌していくので、心身ともども大変よくないことは明らかです。
昔からよく相談などをされるのですが、だいたい悩んでいる人がくれる人間環境ってとてもよくなく、周囲にはだいたい正真正銘の下衆がいたり、人を足蹴にする優越感が大好きな鬼畜がいたりするのですね。
私もなぜかその手の人と遭遇するのでよくわかります。
で、ここまできて、極端に言えば「非人間的な感覚を植えつけるやつは誰か」っていうと、この手の下衆や鬼畜が勢力をふるっているってことに気がつくわけです。
なるほど、ファッキンピーポーなだけにマザーファッカーな徒党を組んでやってくることもありますが、たいてい狡猾であるため、他人をいじめる時は「絶対に相手が逆らえない状態にしてつるし上げてサンドバックにする」というお決まりのパターンで攻めてくるサナバビッチなわけです。
まさに城門を破ると同時に怒涛のごとく全軍突撃を命令する軍師のように手を打ってくるわけですね。
そしてさらに気がつくことは当然「貶めてくる」のです。
「貶める」ってことは「比較」をしないとできないことであります。
「あっ!」と、ここについに「自分で他者比較を無意識にしてしまうのはどうしてだろう」という原因を「社会システム」や「評価」以外に見つけてしまうわけです。
このような勢力が力を持ってくると、当然社会全体が貶められることにも繋がるのではないか。
しかし勘違いしないで欲しいのは、だからといって自分で努力することが免ぜられるというわけではないということです。
「平家にあらずんば人にあらず」などという特権階級制度は日本には現在も脈々と、しかもどす黒く流れ続けているのだという現実は、だいぶ明るみに出て来てはいますが、まあ、この手の下衆はたいてい貧民です。
あれです、芥川の「蜘蛛の糸」で地獄に落ちたカンダタです。
一緒に極楽に行こうと糸を伝ってあがってくる人たちに対して、よからぬ思いを抱くというのは、たいてい悪人でございます。
金銭面で恵まれていようとなにしようと心が貧しいのです。
もし何か酷いことをいわれて落ち込んでいる人がいたのなら、そのような悪党どもの声に落ち込んで心を病ませることなどないのだ。
心を歪ませて下衆の仲間入りをすることはない、とボロボロになる前にどうか心を逃がしてやってください。
って、思ったです。
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