何か豊富な知識があるわけでもない。
自慢できる長所があるわけではない。
勘だけを頼りに、科学的な証拠を探していく。
共通点を集めて、人物像を作り上げていく。
完全オリジナルで作品を作れる作家とは、どれくらいいるのだろう。
誰しも何かから影響を受けたり、模倣を繰り返しながら自分の技術を模索していく。
模倣をしないで大物になる芸術家は皆無だ。
例えば絵画でもデッサンにデッサンを重ねて技法を会得していく。
やがてその中から自分のオリジナリティーが出てくる。
これだけたくさんの人間がいて情報を流しているのに、的確な指摘ができる人物は稀で貴重だ。
振り回されやすく、大きな虚像に飲み込まれ、どうしようもなく覆せない時もある。
人間の心理は、いったん自分の中で合理的な結論を見つけると、なかなかそこからシフトすることができないので、しょうがないことかもしれない。
間違った理屈でも、それらしければまかり通ってしまったり、あたかも正しそうな理屈でも現場では無力なことがある。
論理が正しければ、すべてが正しいわけでもないし、円滑に物事が動いていくわけではない。
芸術家に求められるのは「観察眼」だ。
「売れるものを的確に出していく」というのも、言わば観察眼のなせるわざなのかもしれない。
上記の一文には、いまだ自分でしっくりとこない部分がある。
売れるものと売れないものの差は何か。
「売れなきゃどうしようもない」
そう口々に言われる。
自分の才能を疑う時がある。
歌とか音楽とか、他者の作品に対するコメントなど触れるにあたり、他者は自分の気に入ったものに価値を与えるのは当然のことだが、「価値」とはなんだろうとか、「大事」にしてもらえる「作品」とは何かとか、「魅力」が無いから伸びないのではないかとか、様々なキーワードが浮かんでは消える。
他者の評価を気にすることほど、何かに媚びていることはない。
創作者として下劣な行為であることは確かだけれど、創作者は発信をしたいから創るわけであり、創ったものに触れてもらって、感じてもらいたいからこそ創るわけであって、自己満足のためではない。
何かを外部から感じて創作物として昇華しているのに、誰にも伝えたくないとなれば、自然礼賛・崇拝者か俗物かのどちらかだ。
「まだまだ世界観が狭すぎる」
そう指摘されたこともある。
広い世界観とはなんだろう。
豊かな表現や心理描写、貧しさの中でも様々なものを感じ取り芸術として増幅させるような、たくましい精神。
人々の生活の中には本来芸術となるべきものがすでに密着しているはずなのに、知識を得ることでそこにとらわれて無知に拍車をかけることは愚かしいことではある。
しかし人は自分の愚かさに心底気がつくことは少ない。
音楽のように素直に伝わって、素直に感動してもらって、何の疑問も持たずに周囲に伝えて喜びを共有できるような物を創っていきたい。
それにあえて反しなければいけない時もあるだろう。
いつの間にか傲慢になり、他者を見下すような理屈をこねくりまわすようになったら、もうダメだろう。
自分は今どこにいるのかもわからない。
いや、わかっていないふりをしているのかもしれない。
ねたみ、ひがみ、卑下、鎖は思ったよりも分厚く、何重にもまかれていて、相当負の感情を出すことが癖になっている。
これを断ち切らなければいけないのはわかっているのだが。
世に出るまで、どれほどの時間を費やさないといけないのだろう。
もどかしい日々は続く。
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