芸術は破壊だと思っている。
しかし、個人的な自由が行き過ぎると無法になるように、破壊活動も行き過ぎると、それは単なる侮辱でしかない。
中庸、バランスを考えるといつも悩む。
最初からくくりを作ると何も生まれない。
色々な情報が簡単に手に入る時代になった。
自分で「やりすぎだろ」と思っていたようなことも、何十倍の威力でぶっ飛んでやっている人間たちがいることを知れば、「まだ自分のほうがかわいげがあって、子供じみた考えだ」ということがわかる。
秩序とは、他者を見据えたものだと思っている。
破壊とは、独善でかまわない。
とてつもなく隔たっていると感じているものに出会うと、どうしても自分の中でバランスを取りたくなって、もっと多くの人と出会い、話を聞きたいと思う。
どうしても自分は、自分だけで突出できないタイプらしく、色々と気を使ったりしているようだ。
しかし、少なくとも書き手に必要なのは、ある程度の「公の感覚」であって、それを基準にして、意図的にハメをはずしたり、がちがちに規約を守ったりということを脳内でしないと、作品そのものが壊れてしまう。
情報化社会の中に生き、これだけの掴みきれない情報の中で、本当に「個性」なるものは存在するのだろうかと思う。
模倣の中から新しい物が生まれてくるのは歴史の常だけれども、「個性」とはいったい何のことを指すのかわからなくなる。
結局人間の脳も、与えられた情報で思考回路が成り立っている。
ほとんどの場合、ある程度知っていけば、思考のパターンがわかってくる。
なぜだろう。
個性がないからなのではないか?とふと思ってしまう。
意味の無い不安や、勝手な推測、思想だけの暴走、妄想の伽藍が横行し、現実を見据えたものが薄れてきている。
これは芸術が目指すべきところなのだろうか。
現体制が不安定なのではない。
現実を見失ってきているのではないか。
「人それぞれ」ではない。
人々の中にもその核となるものは存在するはず。
これだけ情報が溢れていながら、思想だけが暴走し、現実はなおざりにされている。
多様性を否定しているわけではなく、一言で言うならば「心の豊かさ」なのだが、やはり難しい言い方をすれば「多くの人間が他者との関りの中で、もっと溢れた想像力や創造力を発揮できる環境」がなくなってきているのではと感じるのだ。
その根底にあるのは人間としての核となるものであり、そして他者と共有できるものに他ならない。
自分だけの「核」ではない。
他者と共有できなければ意味が無い。
つまり、それが芸術としての秩序だと思うのだ。
模索中の思考で、文章そのものが支離滅裂だが、これはこれでメモ程度に置いておく。
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