その人間が語る眉唾な言葉は、結局は信用ならなかった。
最後までそんな生き方をしていくのか、もしくはどこかで本当に孤立して気がつくのかわからないけれど、その程度の感情で、まるで流されているように生きていって、最後にはぼろが出た。
最後のその状態が、すべての真実を語る。
好きの反対は無関心だと言う人がいる。
嫌いになるのはまだ興味があるからだと、多くの人は言っている。
本当に想いがあったのなら、無関心にまではならない。
最後まで、心の中に残った何かを信じている。
だがそれさえも残らないということは、結局は何もなかったということだ。
その人は私に色々なことをやりたいと言った。
やっていきたい、やらせてください。
私に対して言われた言葉のそのほとんどは、嘘になった。
なぜ嘘になったのか。
自分がわからない人だった。
責任感すらも希薄な人だと判断せざるを得ない。
自分のことを理解せず、ゆえに他人も理解できず、いい大人なのに、まるで中学生のような感情で、理屈で、自分のダメさ加減を肯定して、その自分を肯定してくれる環境へと流れていき、その環境で今は元の自分を取り戻している。
そこが、一番落ち着く環境なのだと思う。
人が変わるには、本当の痛みを知らなければいけない。
自分が犯した過ちで、もう逃げられない状況まで追い込まれ、そしてその過ちをとことん理解しなければいけない。
つまり、過ちすらも認めず、そこから逃げ続ける人間に、成長はありえない。
その人は命の短さを時として訴える。
その人の言うとおりなら、もう人生の半分は若くして過ぎ去っている。
もう折り返して、後半に差し掛かっている。
私がとても不思議に思うのは、それならば何故自分の人生を真剣に考えないのか、自分のことを真剣に考えないのか、私にはわからない。
もっと言うならば、なぜ自分の「今」を、もっともっと真剣に考えないのかがわからない。
体が苦しいから、辛いから、精神だけは楽なほうへと行こうとして、今を楽な楽なほうへと向けようとしているのかもしれない。
「その気持ち、私はよくわかるよ。重くはないけど、私も体弱いから」
ある人がそう言った。
自分にはその気持ちがわからないのかもしれない。
もし逃げられる環境があったのなら、楽しい環境があったのなら、自分はそこに浸ってほかのことを忘れ去るかもしれない。
竜宮城へ行った浦島太郎のように。
だが、夢から覚めたら?
突然逃れようのない自分の現実が、逃げ続けてきたその現実が、逃げられない場所まで追ってきたら?
ふたを開けて、自分は本当は老いていたのだと、どうしようもない現実が来た時、どうするのだろう。
きっとそこまで考えていないから、あれだけ眉唾なのかもしれない。
私はその人に正直呆れかえった。
でも何度も呆れかえることをされた後、私は無関心にはならなかった。
その人のことをとても悲しく思った。
哀れみでも同情でもなく自己憐憫でもなく、ただとてつもなく悲しい。
「じゃあ死ぬ前に自分がしてきたことを悟るといい」
たとえその人が本当にどうしようもない人間でも、そこまではどうしても思い切れない。
思い続けることは、本当に無力なことだと痛感する。
気がついて欲しいと、心から願う。
いつか、痛感した時、ようやくその人と語り合える日が来るのだろうか。
もう、一生語り合えるようなことはなく、ただ未熟さを肯定して、逆切れするような人間として、もう二度と会うことはないのだろうか。
今は眉唾な人間でも、将来には今よりも大人になっていることを心から願って止まないのである。
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