サバイバルナイフの規制だとか、やれゲームのせいだとか、大の大人が素面でそれを言っているんだから、自分がもっと幼かったら、「大人って本当にバカなのかもしれない」ってこの一面を見て思っています。
例えばナイフだったら、サバイバルナイフではなく刺身包丁で充分サバイバルナイフ並みの威力発揮すると思うけれど。
マグロ解体用のでかい包丁があるでしょ。小さなサバイバルナイフより、あれ振り回したほうがずっといいわ。
今回は6cm以上の刃物とか言っているからさ、マグロ解体用のは排除されるけど、前に航空機でも似たような動きがあったような・・・
刃物規制したら、今度それに代わる凶器でハイジャック事件が起きましたよね?
・・・なんていうか、「いたちごっこです。まったく解決しません」とか言う前に、着眼点がまったく違うんじゃないのかな?
時々思うことがある。
それは、究極の状態は「法律で規制しなくても、何もかもお互いがうまく行く状態」が、もう最高によい状態なのではないでしょうか。
法律を作る前に「政治」をしたらどうでしょうかね。
この究極によい状態から比較すれば、「個人の自由意志を国家で規制しなければならないほど個人を信用できないし、また個人は逸脱するものである」と「民衆」をくくっているから法律で規制しなければいけないわけだ。
法律を作る前に、もっと政治がやらなきゃいけないことがあるし、ゲームのせいだとかなんだとか言う前に、もっと見つめなきゃいけないことがある。
私の勝手な推測だけど、国民生活が圧迫されるようになれば、自然と犯罪率はアップすると思っているのだけど・・・なぜって追い詰められたらなにするかわからないからね。お金もそう。精神もそう。
自分にとって生きることがどうでもよくなっている人間は、他人を大事にするわけないし、お金に困ってのどから手が出るほど金が欲しくてたまらない人間は、もう打つ手がなくなったら何するかわからないからね。
規制するだけ規制すればいいじゃないの。もしそれでまったく犯罪がなくなったら、全部そのせいだわ。でも、犯罪は起きると思う。なぜって、包丁やゲームのせいじゃないから。
ひとつの問題を出そう。
我々の家庭には必ず包丁がある。その包丁を使って人を殺さないのはどうしてか。
自分が殺そうとする立場になって一生懸命考えて欲しい。
そして、人を殺せるとしたら、自分のどんな感情が足りないときに、人を殺せるのだろうと一生懸命考えて欲しい。
私はそこに個人が他人に接するべき答えがあるのではないかと思っている。
結局、現代人は「感覚のない情報」に支配されている。つまり、本来原始的な生活なら、情報とは五感で感じたものだけが情報として体に蓄積される。
簡単に言えば、自分の足でいけないところの情報なんてわかるわけがない。
でも現代は空間を超えて情報が来る。でも空間を越えたからって感覚はわからない。
旅行記・・・湿度は?気温は?味は?どんな感触?・・・わかりませんよね。
格闘ゲームとかさ、格闘技とか、現象だけはわかる。でもどれだけ痛いかとか、どんな感触かとか、想像しているだけで現実感がない。
ニュースだってそう。想像しているだけで現実感がない。なぜならその現場にいないから。
そういう感情的なリアリティーのなさが、傍観者をきどらせているんじゃないでしょうかね?
みなさんはどう考えているのでしょう。ゲームのせいなのでしょうかね。ナイフのせいなのでしょうかね。親のせいなのでしょうか。先生のせいなのでしょうか。
私はいつもコミュニティー全体の責任だと思いますけれどね。
「防止に勝る抑止はなし」
しかし、「犯罪を起こそうとする気持ちを防止する」のに、なぜ「物質的規制」をかけるのかがとても理解できない。
つまり、包丁や、たとえゲームが絡んでいたとしても、「きっかけ」だったんですよね。それは。
「殺そう。じゃあ素手で?ダメだな。負けたらどうする。絶対殺せるものじゃないと・・・そう言えば、ゲームであんなナイフがあったな。どこで手に入れるんだろう。これか。でもこれだけじゃ殺すのには不安だな。もっと揃えよう。そうだトラックがいいや。トラックで引くだけ引いて、人々が逃げているところを襲い掛かれば、みんな逃げ腰だから殺しやすくなるぞ」
ゲームをとっても、ナイフをとっても、どう考えても殺人の衝動だけは残ると思うのですが・・・
この殺人の衝動を防止するにはどうすればよいのでしょう。
よく「犯行の動機」とか言うけれど、不思議なことに「動悸が生まれた原因を防止しよう」ってところに、いつも深く突っ込めないよね。マスコミも政府も。特にマスコミなんて逃げ腰論調だからね。必ず責任をおわなくてもいい状態から発言をしている。しかも役に立たないし。
愛だろ。愛。愛情が足りないんだよ。みんな他人同士だし、そんなはずじゃなかった。日本はイライラするよ。どうでもいいことでわめきたてるし細かいし。揚げ足を取るのが大好きだし。言葉尻だけにこだわって、問題の本質を見ようともしない。
・・・なんでだろ???
追記:
産経のWEB上の記事から。
石原都知事が行政として未然に防ぐことはできるのか、と聞かれて、「そんなこと、できませんよ。時代の文明はみんなでつくったもんだ」と言ったそうです。
さらに、「ああいう人間っているよね。ただ、ああいう形で爆発するかしないかってのは、時代も背景にあるんでしょうけど。みんな鬱屈(うっくつ)してるよ、今の日本人は」「文明の便宜が進んでも、人間はやっぱり芯(しん)は孤独になっている感じがする」と言ったそうです。
私も同意見です。ただ、政治ができること、ていうのもあるとは思うのです。しかし、民衆が政治ばかりに頼っても、よくはならない。国民の生活レベルを少しでも改善させるのが政治の役割です。理想を言えば、お金に困らなければいい。生活に困らなければいい。
あとの問題はそれぞれ個人の問題であって、さらには個人が集まってできたコミュニティーの問題です。
だから、「政治が悪いから」とか「先生が」とか「親が」とか言う理屈は成り立たないのです。
そこに接していたみんなの責任です。
時代の文明はみんなで作ったもの、というのは常々考えていたことで、大人が批判する子供や社会という構図につくづく苛立ちを覚えていたものです。
残念ながら、今の社会というのは、一つ上の世代が創り上げたものです。その社会で育った子供を否定すると言うのは、自分たちの功績を否定するに等しい行為です。
そのような矛盾を自ら並べ立てて、子供が希望を抱けるのかと、私は思うのです。
誰が時代を作ったのか、ということをよく考えないといけない。
国は政治家のものじゃない。国民のものなのです。政治家は国民の代表でしょう?批判すればよくなるというものじゃない。協力しようという姿勢が足りない。いつも傍観者でしかない。
ひどいものです。
そう・・・どこか鬱屈している。ひたすら抑えこまれている。そして「みんなそうしているのだから当たり前」という風潮がある。挙句の果てには精神論になる。しまいには愚痴しか並べない。野次しか言わない。
本当に何かをよくしたいと考えているのならば、そんな下策は取らないはず。他のプランを考えようとするはず。
もう少し、向き合って欲しいと思う。
向き合うとは、受け入れることです。
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