まず〔まづ〕【▽先ず】
[副]
1 はじめに。最初に。「―下ごしらえをして、その後料理する」
2 とりあえず。ともかく。何はともあれ。「これで―一安心だ」「―一休みしよう」
3 ある程度の確信をもって判断や見通しを述べるときに用いる。おおよそ。多分。「この調子だと―大丈夫だろう」「―助かるまい」
4 (下に否定的な表現を伴って)どうにも。いかにも。
Yahoo辞書から引っ張ってきました。
まず、という意味ですね。
ツイッターを使っていて結構引っかかることがある。
それは人々がどのように言葉を拾って解釈しているか、ということだ。
以前に、
民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。なるほど、作家も似たようなものだな。本当に小説を書きたいなら小説は読むな。人とひたすら接し、人々の気持ちを一つ一つ知っていけ。これが本物の作家の大原則。…となったら生存している作家の中で残るのは誰だろう。
というツイートをしたら、
民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。
という意味が強く残ったのか、これを拾われ「文献を読まずにできる学問なんてあるの??」という文面が飛んできた。
あえて拾わなかったけれど、その他の人たちも「文献を読むな」という部分だけ強調して意味を拾ってきている。
しかも前線で活動している学者さんや研究者さんがやっていたのでさらに驚いたわけです。
これは自分が書いた文章そのものが悪いのですが、正確には「文献に頼るな」というのが正しい文面。
「頼るな」と「まず読むな」では、相当意味合いが違うし伝わる状況も天と地ほどの違いがあるけれど、それでも「まず」が入っていることで「まったく読まない」ということとはイコールにはならない可能性は多分に残している。
…と、私は思っていたのだけれど、読んだ人はどう思うだろう。
まず、という言葉を意味もなく飾りのように使っていますか?
それとも3の意味合いで使うことがほとんどでしょうか。
同じ言葉でも前後の言葉から意味が違ってくるのが文章の不思議な感覚的魅力ですが私たちって自分の感覚に合うような言葉を選んで多用しているところがある。
文章家だからなるべく正確な文面を探し出すことを第一としなければならないし、特にこの場合は本に書いてあることだから自己解釈で捻じ曲げては論外だが、ひとつ気がついたことは「人は弱い言葉を添えても、強い言葉に引っ張られて頭の中に残すのだな」と思ったものだった。
私は小説家だから、人の中で起こる「言葉を捉えるときのあいまいな意味の揺れ」を探って書く。
文章は書いているけれど、小説家は「感覚を与える」ことを第一とするので、論文における正確な意味合いの文章を作る技術とはまったく違う。
以前にもよくこの言葉の解釈で「?」と思ったことがあった。
それはその人が、たとえば「まず」の意味を3の意味でしか捉えてなくて、相手に向かって「違います」と堂々と言っていたことだ。
実際に調べれば3以外の意味があり、相手側が書いてある文面で間違ってはいないのに、その人は3の意味しか知らないから相手に向かって皮肉交じりのことを言う。
こういうことが短い文章上の中で多発している。
その上で争いになることも少なくはない。
言葉の解釈の中で起こる個々人の多様なぶれというのは、当然起こり得るものだが、現代人気質とでもいうのだろうか、相手の言葉の意味や価値観を強制しようとする行為はネットを問わず現実空間でも多々起こっている。
どうしてだろう。
明らかに訓練ができていないということもあるが、言葉の中に多様な感覚や意味のブレがあるということの気構えができていないのではないだろうか。
この「気構え」というのは「興味の範囲」が著しく個人の中で完結しているということだ。
だから他人が持っている感覚に興味がわかない。
気がついても入り込めない。
と、ここまで来ると訓練ができてないということに戻るのだろうが。
個人は感覚の中で生きている。
言葉を持つ前の出発点は感覚である。
それが集団を形成するひとつの鍵になっても、集団としての特性を現すには隔たりすぎている。
しかしその集合感覚こそ、集団であることは間違いない。
先ほどのツイートの内容は結局言葉というのは、感覚を基点としているからこそ、人の感覚を知り、そこから文章なりを編み出していかないといけないということだ。
私は民俗学のことなど知らなかったが、小説家のこのような感覚から照らし合わせれば、民俗学というのも同じように文字から探り当てるのではなく、人の息吹を体の中に叩き込まなければいけないのだ、というのはよくわかる。
だからこそ小説家も他人の感覚をどんどん吸収した上で、他者の著作なりを改めて読んで、より多様な感覚でもって体に叩き込まなければならない。
それでこそ、小説が息をし始めるものだと思っている。
言葉というのは大事だ。
今の若い世代はどんどんボキャブラリーを失って感覚的に伝えるようになってきているが、言葉は感覚を表現するのにまず役立つ。
現在の国語の試験のように答えが決まっているわけではなくて、「まず」のように色々な意味を含んでいる。
感覚だけがあって、言葉にできないと、誰かに気持ちを伝えるときに言葉以外の行為になってしまう。
まず言葉は自分の感覚を解釈するために使用される。
その上で伝えられるわけだ。
もっと高度になると他人の感覚を解釈するために使われる。
技術的なことやシステム的なことを言葉にするとどうしても「説明」が多用されることになるから、言葉の意味も他者との中で限定していき、その意味のブレが極めて小さいのが好ましい。
この説明の技術と、日常会話の技術、つまり言葉の使い方は違う。
説明は意味のぶれを狭めるのに対して、日常会話や対話というものは意味のぶれを楽しむところがある。
この意味のぶれを受け入れて、違った形でやりとりするのが他人と交流する上でとても大事なことだ。
しかしその「交流の前提」すらも成り立たなかったら少々困ることだろう。
先ほどの例のように「まず」がAさんにとっては1の意味、Bさんにとって3の意味で押し通し譲らない会話が永遠と続けば喧嘩になることは当たり前なのである。
大げさな例に見えるかもしれないが、実は大げさではなく結構やっていることなのです。
最近「無縁社会」の座談会に出席したけれど「無縁」の意味や内容や感覚でさえ一致していない。
現在はみんなばらばらになって、手探りで見えるものを追っている状態。
言葉には「文字」と「口頭」があるが、どちらにも感覚を根底としている。
言葉を解釈することは感覚を解釈することでもある。
その中にある本人だけが抱えている微妙な感覚は言葉にできないことがほとんどだ。
言葉を解釈する上で一番大事なのは「自分がその言葉について知っている意味とは違う可能性もある」ということを、きちんと頭の片隅にでも置いているのかということでもあると考えている。
自分の中で意味を限定すると、人は数多くのものを見失いがちなのである。
元ネタ
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