言いたいことはたくさんある。
感情が先走り、色々なことが積み重なり、個人的にはいっぱいいっぱいですが、「みんなで集まって話し合う場を設けてくれたのだから、そのことに感謝しないといけないよ」と言われ、はっと自分の思い上がりに気がついた。
この言葉をくれた、画面の前のあなた、ありがとう。
あなたのような人に出会えてよかったと思っています。
そして連絡をくださった番組ディレクターOさん、ありがとうございます。
ようやく気持ちも落ち着いてきたので追記を書こうかと。
前の記事で40代の男性のことを少し書いた。
最初から最後まで険しく悲痛に満ち溢れた顔だった。
私はあの人がそこにいてくれただけで、よかった。
私は精神的に完全にダメだった時期があったから、あの人の気持ちも少しはわかるような気がした。
来るだけで、勇気がいる。
そして、現場で活動している実際の意見や言葉の前に、酷くコメントし辛いという悲しい気持ちもよくわかる。
何を感じているのか、何を自分に対して思っているのか、その顔を見せてくれただけでわかるような気がした。
私だって無職みたいなものだから社会的に控えめで消極的な立場に置かれているのだという感覚はよくわかる。
この記事はきっと見ていないとは思うけれど、この場を借りて千歳からわざわざ座談会にまで来ていただいて、本当にありがとうございました。
時代が変わる、と前回の記事で書いた。
これは現在の若者が繰り上がってくるということだ。
今の若者は携帯電話が主なネットワーク手段になっている。
これで非常に速いスピードでネットワークを広げていく。
しかしそれは強く切れない絆ではなく、誰が切れても大丈夫なように保険をかけておくようなものだ。
だから深い付き合いよりも浅く広くという構図になっている。
一度に会話などに意味を一気に込めるのではなく、たわいもない言葉を重ね頻度を上げることによってコミュニケーションをはかっていくのが特徴だ。
つまり深い話は逆に重い。
説教なんてしようものなら、ほぼ絶交になる。
他の人で代替すればよいからだ。
これが「保険」の意味になる。
縦構造があまりにもしっかりしすぎていることに息苦しさと苦痛を感じた人たちは横の連帯を強めていった。
シェアハウスに見られるような、「独りにはなりたくないが、かといって過度な干渉は避けたい」という気持ちを持った人たちが増えている。
この横構造の連帯感というのは、板状のようなもので格子状のものよりもろく、また世代ごとに取り替えられるという欠点を持つ。
つまり壊れやすい板が他の板と交わることなくエレベーター式にあがっては消えていくという図式。
現在のシステムについても同じようなことが言えるのではないか。
つまりシステムが世代ごと、時代ごとに通用しなくなり上から押さえつけられることに強い抵抗感を示している。
蜘蛛の子を散らしたように個が広がりだしている。
システムというのは組んだ途端内側と外側に分かれていく。
システムの恩恵を受ける人とそうでない人に分かれる。
システムは万能ではないし時代の変化によって老朽化していく。
現代人はどうしてもシステムに支配されている社会に住んでいるのでシステムから人を考え出す。
本来ならば逆でなければいけない。
つまり人が動きシステムが自然とでき、できたシステムが人の動きによって次々にアップデートされていく。
これが健全な社会だ。
座談会が終わり、少し他の人と話していた中で面白い話が出てきた。
「世間師(しょけんし)」という存在がいる。
簡単に説明すると、この存在は自分の足で広く見聞を広げ情報をもたらすもののことを言うそうだ。
なるほど、現代社会ではネットや新聞など自分の足を使わなくても何が起こっているか情報を得られるが、それらがなかった時代においては外部の情報をもたらす人間の重要性というものがあった。
これは例えば村社会に自分が住んでいることを考えれば容易に想像がつくと思う。
そうして外の世界を知り、新しい情報により人々が住んでいるコミュニティーが変化していく。
しかしその新しい情報により変化を求めない組織は閉鎖性を強くしていくしか道はなくなる。
日本には二つの歴史があるという。
これは日本ではなくとも歴史や文化を大事にしている国ならば当然あるものだと思う。
一つは「記録による歴史」と、もう一つは「記憶による歴史」だ。
このことは識字率のことも関係してくるが、そもそもの日本には「記憶による歴史」が強くあったはずなのだ。
これは「口頭伝承」の類のものだ。
私はこの話を聞いてピンと来るところがある。
私は文章を書いている。
文章というのは自分だけでどうにかできるような問題ではない。
当然先人たちの技術を吸収しながらオリジナリティーを出していくしか方法はなくなる。
過去や周囲の人間を無視しては成り立ちようがないのだ。
文章には性格が出る。
どうしても「本人の癖」「息遣い」「思想」が基盤となって文章上に現れてくる。
それはいわゆる「個人」である。
口頭伝承に関しても、たとえば婆ちゃん爺ちゃんが話をする時伝説や言い伝えや技術や注意だけの話で終わるわけがない。
そこに「個人」というものが大きく関与して伝えられるわけだ。
つまり、ここに「個の伝承」がある。
そして話を伝えられる人々が集まったりすることもあるので横の連帯感がある。
一方、現代都市社会は経済活動を前提に成り立っている。
ここには「記憶」というものに、一切価値を置かない。
この社会で重要視されるのは経済活動を成り立たせる「行為」であり「技術」だ。
その軸があって、周辺に思いがある。
経済の内容的軸が変われば人の思いも変わるし個人を捨てても支障をきたさない。
経済活動が成り立つことが大前提になるからだ。
いわゆるこの点に強く着目すると現代都市社会というシステムを成り立たせるには「記憶」というものを削り落とし経済を成り立たせる「技術」と「行為」に特化させれば成り立つ。
よって「個人の記憶の継承」などに、なんら価値はない。
経済活動前提で成り立つのだから「老い」そのものにも価値はない。
無縁無縁と今騒いでいるが、「個人の記憶の継承」に価値をおかない社会の根底に何があるかというと実は「民族性の希薄さ」なのだ。
つまり「日本人」となるべき人間は経済都市システムの中に入れれば誰でもいいわけだし、日本人の民族性よりも貨幣経済活動のほうが重要視されている。
ここには日本人はいても日本民族は残らない。
「記憶の歴史の断絶」がどこで起こったのか現代人ですら理解していないから「記録の歴史」から日本人を捉えようとする。
特に東京都は地元から離れてきている人が多い。
知らない人ばかりが多い中、貨幣に力点が置かれ、都会に特化した価値観で人々は構成される。
そこに「個人の記憶」など入りようもないのだ。
グローバル、グローバルというが高度経済都市は民族性を捨ててフラット化していく運命にあるのだろう。
だが、人はそうはいかない。
失われていくものに寂しさを感じるし、生まれ育った「よいもの」が失われていく喪失感はどこかで感じている。
その感触が、人を動かしているようにも感じる。
人は自分を語るという行為を通じて、自分を表現しようとし、自分の存在を確認する欲求があると私は思っている。
自分を語ることに価値を置かれない社会において、その場が次々と奪われている。
アップデートがなされるとしたら、それは「経済的な理由」があってなされる。
そこに「個」の本当の価値があるのか。
経済的な貢献ができなくなった途端、「個」はそこからはじき出される。
これは当たり前の帰結なのではないか、と考える。
私たちがこの先「記憶の歴史」というものと、都市社会システムとを、どう共存させていくのか、それともやはり記憶には一切価値を置かない社会を作り上げていくのか、私たち一人一人がよく考えて未来を選んでいかなくてはいけない。
個と個を繋ぎ合わせるには、「記憶の共有」が必要なのだのだから。
[2回]
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