震災発生から10日が経ったそう。
ずっとそわそわしてたまらない。
それは大阪の人であろうと九州の人であろうと、北から南まで同じような気持ちのようだ。
何か集中しようにも落ち着かなくて気が散る。
特に大阪や兵庫の人たちは震災を体験しただけに自らの体験を重ね合わせる以上の感情が湧き出ているよう。
こういう時に言葉というのは本当に無力だし、自分が落ち込んでいる時に励ましの言葉を受けて「何がわかる」と余計に腹立たしい気持ちを覚えたことがあるので、被災地の人たちとなれば励ましよりも現実的な対応のほうがずっとずっといいに決まっているだろう。
被災地の人たちが欲しいのは言葉だけの励ましではないし、慰めでもないし、明日の生活のための糧となるもの、明日に繋がる現実的なものが欲しいに決まっているのだから。
こういう震災を機にして、何者が口だけのやつなのかそうでないのかが、はっきりと出てくるのも興味深いところ。
口だけというのは言葉が悪いが、要するに「真剣に人の現実に向き合っているかどうか」というのがわかる、ということだ。
と、同時に文学というのは何の役に立つのだろうかと、また考え始める。
私は「文学」というのはひとつの人間の精神における「ひとつの綱」のような役割を果たさなければならないのではと考え始めている。
それは感情や精神に示唆というものを与え、ひとつの壁を超えていくためにそっと垂らす綱のようなもの。
それがなければ言葉もただの飾りでしかない。
飾りのための「消費されるだけの言葉」は、それは「文学」ではないのではないのかと思うところがある。
なぜ残すのか、なぜ書くのか、明確に説明しないまでも感じるものがなくてはいけない。
直感的に「これは残さなければならない」という強烈なインスピレーションがなければならないのではないか。
さもなければ、すべての行為は己のための慰めであり、ただの惰性でしかないからだ。
その上でなされた苦労など、自己顕示欲に貢献するものでしかない。
上辺だけの言葉を語る人間はたくさんいる。
その気もないのに言葉だけ。
実際の行動に移る時「じゃあやりましょうか」と突きつけるとダンマリ。
保身に走り、言葉は身を守るために使われる。
「情けは人のためならず」とは言うけれども、度が過ぎればただの自己憐憫の連続。
本当は自分がその言葉をかけて欲しいだけの状態に陥っていることにも気がついていない。
「勇気」は、いつも試されているのだ。
言葉だけだと確かに無力だ。
しかし、勇気のある言葉には納得できるものがある。
行動が常についてくるからだ。
だから結果がどうあれ前進はしている。
たとえ失敗して勇気が粉々に打ち砕かれようと。
震災が起こった。
東北の人たちは、私は強いと思う。
同じ雪国にすむ人間として、冬の寒さの中を淡々と過ごし雪に向かっていき耐え忍んでいく雪深い地域の生活を思うと、ただの先入観かもしれないが、辛抱強いと思っている。
これから1年後、少しだけ安定してきた頃、関東大震災の時は利権風俗など少々荒れたようだが、さて東北はいかなることになるであろう。
その時、人の精神が乱れた時、ようやく文学の出番が出てくるような気がする。
テレビなどを見ると本当に気落ちするが、なんとか落ち着けて動いていこうと思う。
[2回]
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