屋根の鉄板の上にビーズを落としているような音が響いている。
何日も何日も曇天の中、道産子としてはどうにも馴染まぬ長く激しい雨の音だ。
蝦夷梅雨という言葉が存在しているが関東の梅雨とは程遠く意識するほどでもなく気が付いたら雨が止んでいる程度だ。
朝降っていても昼には上がり、虹が差す程度。
長い期間雨に包まれ打たれ耐え忍ぶようなものはなかった。
だけれど今年は長く感じる。
雨が降り続けているような感じに包まれる。
昔沖縄から北大に入学して冬の曇天の長さに鬱になったという話を思い出したほどだ。
嫁は苦しんでいた。
子育てで自分にも激しくぶつかってくることがあり、それほど専門知識もない自分はぶつかってもくだけるしかなく、結局は自分ができる限りの、可能な限りのことをするしかなかった。
嫁は苦しんでいた。
6月1日から娘の離乳食が始まり、当初は自分もあまりもの少量過ぎて市販のものでよいと思っていた。
フレーク型の、お湯を混ぜるだけでおかゆができる、というものだ。
1日ぺろぺろべー、と出す
2日目も同じ。
3日目粉ミルクと一緒に混ぜても同じ。
4日、5日、6日、7日、同じ。
出す。飲み込まない。
嫁は6日にしてたまひよ掲示板という同じ時期に産まれた人たちが集まるたまごクラブひよこクラブというベネッセがやっている掲示板での主に母親が投稿している「子供が美味しそうに食べていた」投稿に心揺れ荒れる。
7日目、もうわからなくなり、市役所に相談しに行く。動画も道具も全て持ち込んで。
「内容自体は問題ないから単純に美味しくないから食べないのではないか」
とのアドバイスをもらう。
栄養士の方にも同席していただいたそうだ。
自分も以前話を聞いたことがあるが、その時自分が調理師免許を持っていて飲食店で働いていたことから色々質問したところ気にかかったことは「美味しいものを食べさせるとハードルが上がる」ということだった。
その時自分だけではなかった。嫁も同時に頭をよぎったことがあった。
菩提寺に紫の袈裟をつけられる住職がいて、ある日の話が頭に引っかかっていた。
お孫さんがデミグラスハンバーグはそこの店しか食べなくなったという話だ。
自分たちもお盆の時に、その店は普段やっていないのに不思議と特別にお弁当を作っていて、お世辞抜きに豪勢な、食べきれないくらいの、わかりやすく言うとお節料理の重箱一段くらいの量のお弁当をそのお寺で食べていたので、気にはなっていた。
ある日自分たちで手を合わせたくなり菩提寺に寄ったついでに、そのデミグラスハンバーグなるものが気になり、ランチ時間帯に立ち寄ったのだが売り切れでよかったとほっとしたものの、値段を見て二人で「まじかー」と力の入った後に脱力するような気持になった。
和食のお店で中庭もあり、高級料亭……いや、お値段も普通にランチを食べるような感覚ではなく、ちょっとホテルで食べるようなお値段だ。
そして、その、デミグラスハンバーグの値段がついにわかったのだが3500円だった。
値段ではない。もう既に何度か弁当を食べ、そしてお店に行って食べた物も互いに感動した味だ。不味いわけがないよねという結論とそして子供の頃からこんないいもの食べさせたらダメだよということを言い合った記憶がある。
絶対ハインツとか使ってない骨から作っている可能性もあり、というか恐らくやってる、と感じた。
この話が何故離乳食に関わってくるのか。
2018年9月6日北海道胆振東部地震が起こった。
厚真町という場所が最大震源地だった。
何もできないのはわかっていたが、場所を見たくなった。
何かできることはないのか。無力な自分には結局何もできなかったけれど、厚真町に「さくら米」というななつぼしの品種の米があることを知った。
近くに温泉があるが、その豚丼の米が美味しすぎて、これは買いたいと思ったのがきっかけ。
あと特産品は北海道最大の生産量のハスカップ。いや、日本一の生産量だ。ブルーベリーのような甘酸っぱい、大きさもほぼそれな果物があるけれど、そちらは食べ続けるにはそこまで流通しておらず、値段も安くはなかった。だから米になった。
落ち着いてからずっと買い続けている。このお米、特殊すぎて販売している場所が厚真町のコープかふるさと納税かという入手経路が限られている。
札幌から厚真町に近い今住んでいる北広島市からでも片道2時間近くかかるほど離れている。札幌からだったら3時間。気が遠くなる。
「美味しいものを食べさせたら子供がそれを学ぶから次食べさせるもののハードルが上がる」
ということを栄養士の方からアドバイスをもらい、高僧のお孫さんが高級料理の味を知ったら、それ以外の同類のものを食べなくなったという話を思い出し、そして市役所の意見としては「美味しくないから離乳食を食べないのではないか」ということだった。
正直抵抗感があった。
ーーヨワイ6カゲツニシテ、ムスメ、グルメニナリケリ
なんせこの米は山形産のはえぬき以来の感動を覚えた米なのだから、人生の中でもコスパ最強米として買い続けていた米。
ゆめぴりかは甘すぎてべとべとしすぎて自分の好みではなかった。美味しいんだけど、ここは好みの問題。
とてもいいバランスのお米なので、うちの米は嫁納得の定番となった。
10倍がゆは米をこしてどろっとした状態にする。
炊飯器でやる場合通常の米の上に容器を置いて一緒に炊くとできると書いてあったのでステンレスの容器を米の上に置いて10倍がゆを一緒に炊くという方法があると知ってやってみた。
7日目にして心折れかかった彼女が掴んできた情報だ。
8日目、ついに自分たちが食べている米を娘の口につける。
今までべろべろべーとほぼ口から出していた。
嫁がスプーンを口につけ優しく注ぎ込む。
……ぺろぺろ……ペロペロ……。
出さない。
え? 出さない? 出してない?
父母ともにやける。
もう一口スプーンで注ぐ。
飲んでる? 飲んでる? 飲んでるー!
そして娘にやけてるーっ!?
嫁は肩の荷が少しおりるような気持だったろう。
2人して笑った。
「1歳にもなってないのにもうグルメかよー!」
思わず自分が噴出して叫んでしまった。
3500円の話が2人の頭を目まぐるしく駆け回っている。
将来娘の肥えた舌を満足させる料理担当は自分だ。
今の料理の知識では追い付かなくなることは必死だ。
6月9日も食べたから、もう間違いない。
美味しいものがわかるのだ。ヨワイ6か月にして。
……勘弁して欲しい。
容易に予想できる。
手を抜いたら「美味しくない」と言われるのを。
苦しみのほんの少しの隙間から笑いが漏れる、今はそんな状況。
曇天の雨あがらぬ雲間から光が突き刺すように空を飾っていた。
後部座席に座り娘と瞳を合わせる。
面白い子だ。
貴女が見る空は、常に変わり続けているよ。
気持ちが追い付かないほどに。
P.S.
厚真町のさくら米作っている農家の方、うちの嫁の悩みが一つ減り娘が笑顔になりました。
ありがとうございます。
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