2007年アカデミー外国語映画賞受賞作品。1984年、ベルリンの壁崩壊直前のソ連色強い東ドイツで、社会主義にそぐわぬ思想を排除し、国家の統制をはかるために、劇作家ゲオルク・ドライマンは国家保安省に目をつけられ、盗聴されることになる。盗聴を担当したヴィースラー大尉は彼らの生活を事細かに盗聴していくにつれ、やがて盗聴の重要な内容を保安省に報告すべきを黙殺していくことになる。
社会主義体制というものを詳しく知っていないと、その対比としての「自由」というものが見えてこない映画だけれど、題名で想像するようなゆるやかなイメージとは違って、時代がやや殺伐としていて、今のような民主主義のもとの自由思想がなく、国家の思想こそが国民の絶対的な正義である背景であるから、今の暮らしの感覚をそのまま当てはめてみるには、なんの感動もなく終わってしまう映画だと思いました。東西冷戦の緊張状態と、自由主義国家への人々の心の揺らぎ、国家としての維持を思想弾圧という手段により、多くの人々の心が奪われていったということが、(普通の枠にはまらないのが芸術家だが)芸術家の視点と生活を通してよく出ていると思う。恋人の女優がどうしてそうしなければならなかったかも、背景が理解できていればきちんと納得できるものになります。
重要なソナタは物語がやや進んだところでちょこっとだけ出てくるのですが、純粋に綺麗なメロディーではなく、不協和音交じりの旋律である。だからこそ、余計に鉄の枠の中に納まりきらない人の心の叫びを現しているのだろうと感じたが、本当にちょこっと出てくるぐらいでメロディーそのものは映画の中に出てこない。
しかしよく画面が計算されているし、シナリオも練ってあるので、一場面を見落としてしまうことで、ちょっとした気持ちや配慮を見逃してしまい、映画の面白みが半減する。たんたんと進んでいくようで油断のならない映画なので、画面からは目を離さずにしっかり見ておくこと。「あいつ、実はいいやつじゃん」ということになる。もちろん救いようもない人もいるけれど。
繰り返して見ていると、どこかじわりと来るものがある。ヴィースラー大尉役のウルリッヒ・ミューエが、ちょっと凄すぎるのではないかということとか、シナリオの時間差で来る魔力とか。ここで自由や愛などということを語ってはたちまち陳腐になるからやめておきますが、冷徹に任務を遂行するヴィースラー大尉の微妙な心の動き、そのひだまでが読み取れるような彼の演技は見れば見るほど凄い。
本編の報告書を読むシーンで、報告書の内容がそのまま「文学」になっているところがあって、それを「よい報告書だ」とヴィースラー大尉が言うシーンがあり、ヴィースラー大尉の想いがどっと見えた。愛と悲しみと苦しみを見守る彼の密かなる息づかいが画面の隅々から漂ってきます。
日本語の紹介のキャッチコピーからは、中身の深さまでは表しきれない。ヴィースラー大尉が徐々に芸術の持つ「自由」さに目覚めていくけれど、芸術を理解するには、それを受け入れる用意が必要になってくる。芸術が心を打つとき、それはその人の中に、少なくとも抑圧された、もしくは爆発させたい、表しきれない、どうしようもできない、「理不尽さ」が内面に潜んでいる。その昇華が芸術においての「表現」であり、そこへの自己中心的ではない理解こそが芸術を鑑賞するにおいての「用意」であると私は思う。今や何もかもが安売り過ぎて、一体どこに芸術があるのかという疑問があるが、これは本編とは関係ないのでやめておく。本編に出てくる「芸術家が身を売るような取引をしてはいけない」これは教訓でしょう。
蛇足ですが、ヴィースラー大尉役のウルリッヒ・ミューエは東ドイツの人だったのですね。時代を生きてきた人がそのまま演じているのですから、もはや演技ではなくて当事者ですな。久しぶりに最後まで飽きることのない映画に出会いました。
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