「BABEL」で世界的に有名になったアレハンドロ・コンサレス・イニャリトゥ監督作品。
ショーン・ペンとナオミ・ワッツとベネチオ・デル・トロが出ておりますが、なんとまあ重苦しい。
人を選ぶ作品ではあります。
「life goes on=人生は続く」という言葉がぼちぼちと作中に出てくるように、喪失と再生の物語から「人生は続く」ということまでを繋げる作品ではありますが、一口では「悲劇」なので、エンターテイメント系の映画しか見ていない人は覚悟してみないと辛いかもしれない。
この映画の最も特筆すべきことは「編集の勝利」といったところでしょうか。
文字通り非常に編集技術が優れています。
「BABEL」でもそうでしたが、時系列にシーンを並べません。
ストレートに並べてしまったら、ひどく凡庸な映画に終わってしまったと思う。
この監督さんは「人間らしい記憶の視点」を大事にしているのではないかな。
だから編集もそうだけど、カメラワークが第三者の視点であったり当事者の視点であったり、人が見ようと意識する視点に沿っている。
監督さんの母国メキシコでは「死」が生活と隣りあわせだという。
日本の日常では忘れ去るほどの距離にあるように感じるが、それはいつも近くにある。
21gというのは誰かが死んだ時に軽くなる重さだそうだ。
監督さんは「三人の弱さを愛している」と言っているけれど、人は弱さを持っている。
それは小説を描く点でも同じ視点で描く。
「弱さ」こそが人間らしい機微を出すのに一番リアリティがあるのだけれど、この映画の主人公たちは「弱さ」で引き寄せられている。
そして自らの「弱さ」に翻弄されているけれど、「弱さ」という視点で見るならば一番自分と向き合おうとしているのはトロちゃんじゃないのか。
この映画はひたすら「弱さ」というものに流されていく、いや、それこそまさに「絶望」なのだろうが、このシナリオだと命の輪廻は、まるで偶然で成り立つようにも思えてくる。
人間は意志があって、行動する限り、どうしても自分の欲(行動から来る因果)から「自分の人生は偶然によって成り立っているのではない」と思いたいだろうし、たとえすべてが「偶然」だとしても、そこに「意味」や「意義」を見出そうとする。
そうして「理由付け」をしながら人生を進めていっているように私は感じるのだが、どうだろう。
この監督さんのように、まるで「方丈記」のような「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず~」という境地にまでは、通常の人間は達観することはできない。
だからこそ、通常体験しないような絶望的な悲劇と私は無縁である、という意識のほうが先にたって、この映画を「遠い誰かの悲劇」だとしか受け取れないのではないだろうか。
でも、自分が体験した悲劇以外は感じ取ることができない、というのも寂しいけれど。
人間は通常「明日以降も人生が続く」と考えて生きている。
だから目標を立てたり、意義を見出したり、人生は決して偶然の産物ではないのだという要素をどこかに見出そうとして気力を奮い立たせる。
前を見ようとするきっかけをどこかで見出そうとしている。
ああそうか、きっとこの映画が示唆しているのも、そこなんだろうな。
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