病室の窓には北大のポプラが見える。
農業試験場の土色の四角い区画と、牛がのどかに牧草を食べる緑色の四角い区画。
ミニチュアのような北大の建物の奥には大きな筆で横一直線に引いた砂塵のような灰色の雲が、写真を右から左へ動かしていくように、速く動いている。
下の花壇には灰色の空の下、強い風になぶられるように黄色い水仙がフルフルと震えていた。
ようやく札幌では桜の開花宣言。
近くに植えられていた桜は2日前の蕾から一気に花へとなっていた。
それでも最高気温は14度。
西日本じゃ30度にもなろうとしているのに対して、北海道はゆるやかに春を感じ出している。
「手術後は歩いて病室まで帰った」
と父親は言った。
母親と二人で行くと寝ていたが、最初は寝ていた。
少々微熱があると言っていた寝顔は少し赤かったが起きたら赤みが引いてきていた。
たいしたことを話すわけでもなく、一言二言、会話をしては途切れる。
うちの家庭はいつも会話が少なく、まず「会話」で盛り上がることがない。
そんな家庭をずっと築いてきているから、別段寂しいとも思わない。
当然の光景のように受け止めている。
水がまだ飲めないので口をゆすぐ。
ベッドで横になっている父親に母親が水を飲ませて豆のような形のプラスチックのお椀に吐き出すが、肩口にこぼれる。
「へたくそだな」
と、文句を言う。
手術後一日も経過していないのに文句のひとつも言えるようなら、まだまだ長生きできるだろうと内心笑えるようになってきた。
父親が屁をして「聞いたか?」と聞く。
私は「え?もう出るもんなの?」と思っていたが、腸を切り繋いで次の日に屁が出るようなら、おそらく良好なのだろう。
帰る時に「じゃあね」と母親と2人で片手ずつ握り、私は父親の右手を握ったが「痛い痛い」と言われてしまった。
輸血用の穴が右手にはポツっと赤くあった。
それにしても、3人が一瞬とはいえ手を繋いだのは二十数年ぶりなんじゃないだろうか。
心から3人手を繋いで、繋がなくなって、そして色々あって、二十数年も経った。
うちは3人とも典型的なB型家族で、一方的に喋っては終わっていた。
何も伝え合えず、伝わらず、何もかもが崩壊する寸前までいった。
一見何一つ問題がなさそうな、誰しもがうらやむ、よい環境の家族が、今ひとつの再生を見せようとしているのではないかと感じている。
最近面白い考えに触れて「なるほど、もしかしたらそうかも」と世界の捉え方を改めている。
少し話が長くなるので省くが、「量子論」的な考え方で、「人間個人の行いえる行動はあらゆる世界線で行われているので、善と悪の考え方はもうない」という考え方。
私たちの感性では時間や人生は一本でしかないかもしれないが、すべての根源から推測するなら、人間の感性で矛盾したものでも同時に内包しているという。
具体例を出せば、私が今殺人者として刑務所にいた可能性だって、家族なんてもうとっくの昔になくて、ひと財産築いていて、テレビにも出ているとか。
もしそんな世界に自分の人生が傾いていたら、このような日記を書くことはなかった。
そしてこの日記を書くことで「バタフライエフェクト」が発生することもなかった。
また父親の手を握ってこようと思う。
今は等身大の父親が見える。
昔は心がにごっていて何も見えなかったが、今は見える。
お互い小さな人間同士なのだなと、しみじみ感じる。
だからつまらないことが大きなひずみになったり、その逆として小さなことが大きな幸福になっていくことだってある。
私が今数分でも、無言でも、父親と接していくことは、とても大きな意味があるように思えてならない。
気恥ずかしくて、一言だって言えないけれど、文字なら書ける。
「私は、あなたの息子です」と。
ツンデレオヤジめ。
[2回]
PR