禁酒の約束なんてするもんじゃなかった、と男は後悔した。
男というのは「つまらないな」、と時折思うことがあったが、その理由は「見栄のために安請け合いするんだから」とのことだった。
「お酒は体に悪いし、飲みすぎだから少し禁酒しなよ。来週ぐらいはさ」
「わかったよ。それできたらやらせてくれる?」
「考えとく」
男のスケベ心をみなぎらせ、冗談ともわからぬ言葉を投げかけひらりと女にかわされる。
たとえやれなくとも、ちょっといいところを見せてやろうという思いがムクムクと湧き上がり、滅多に我慢などしない男が我慢を強いる生活を一週間続けようと決めさせたのだった。
何故、酒を飲まなければいけないのか。
飲まない人間には一切わからず、ただ合理的な意見しか出ない。
「タバコは体に悪いんだからやめればいい」
という理屈は
「打席に立てばホームランを打てばいい」
という理屈にも等しい。
そしてその理屈を「言い訳」とし、冷たい目で見る。
男はタバコは吸わなかったが、喫煙者の心苦しい事情が少しだけわかったような気がした。
ようは「約束事」に追い込まれていくのだ。
男にとって酒は「向精神薬」の役割を果たしている。
「肝臓壊して死んでいった患者さん何人か見てきたけど、ろくな苦しみ方しないよ。見てても地獄だから」
看護師の女に言われたことを思い出したが「だからどうした」と苦々しく聞いたこともあった。
心にこびりついた悲しみや苦しみはどうやったら拭い去ることができるのか。
男にとっての問題はいつもそこだった。
ふらふらと夜を徘徊し、騒がしい時間を逃れてようやく一人になれる。
数多く入ってくる他人の意識から解放されて、自由になれる。
だが終日男は脅えている。
いつ、過去が心を襲ってくるのか。
苦しみや悲しみの源泉は常に「若さ」の中にある。
ゆえに男は「若さ」に苦しめられるのだ。
掻き毟られる。ガリガリ、ガリガリと爪を立てられできかけの木版を削られるような苛立ちと憤怒に殴られ続ける。
動悸が激しくなり、息が荒くなり、怒りの言葉を吐き出して右往左往する檻の中の獣となる。
身悶えながら呻きながら皆このような苦しみを味わうのか、それとも俺だけなのかと、男は考えをめぐらせながらのた打ち回る。
まるで発作のように、病的に襲ってくる精神作用に虚しさすら覚える。
「何故、生きている」
その疑問を掻き消すために必死に車輪をこいでいるにすぎなかった。
意味や意義を自分で探し、自己嫌悪の中で「好き」を見つけていく。
あまりにも寂しき姿だった。
昔は周期が激しすぎて脅えきっていた。それが来ると、一日中何かで気をそらして一日をやり過ごす。それしか手段はなかった。思考を麻痺させて人間的な営みを徹底的に排除する。何も考えない。何も感じない。誰も心の中に入れない。酒、酒、酒。
数多くの嘔吐の果てに何が残ったのだろう。何か残ったのだろうか。
か細く繋げた糸の先には希望らしきものも確かに存在する。
男は日々満ち欠けしていく月を見上げ、夜を徘徊し、酔う。昼間から襲ってくれば昼間から酒を煽る。
往生際の悪い抵抗をし、掴んだ心からベトリとした感触を得る。
ヘドロのように粘っこく汚らしく得も知れぬ臭気を発しながら汁を垂らし続けるそれを見た時、直視できずともそれと付き合い続けなければならない虚しい性を叩きつけられる。
景色などなかった。ただ荒野に立たされ、手に余るほどの恐ろしい広がりに気をしっかり保っていなければ自我など吹っ飛んでしまう。
やがては道標すらも忘れ、荒野のど真ん中で呆けてしまわないように男は意識を保ち続ける。
禁酒明けは酒を注いだコップをしばらく見つめ続けた。
痛みを忘れるために飲んでいた安酒が、依存のようになっていくのも時間の問題ではないのか。
気の持ちよう。気の持ちよう。
まるで神事のように酒と男の間の静寂に様々な思いが交差する。
「こんな気分で飲まなくていい日が訪れるのはいつの日か」
並々に注ぎきった酒のまずさを堪えながらぐっと一気に飲み干す。
もうすぐ、今日の記憶も消えていく。
能面のような顔つきで、男は沈んでいった。
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