書くのはよそうと思っていた。
思ったとおりの流れというか、何を話し合っているのだろう、という印象。
今回は若者を中心にした討論会。
でも、本当に「無縁」について話しているのだろうか。
主題が「働く」ということにおかれ、あたかも「雇用問題」に関係することがクリアになれば無縁は解消するかのような流れ。
現実問題として経済のことは個人ではどうしようもないし、政策のことだってもっと多くの人間が賛同しないと政治家は動かないだろう。
少し極論に聞こえるかもしれないけれど、無縁の問題は「お金の問題」とは分けて考えるべきなんじゃないかと思うんだ。
当然生活するにはお金が必要で、生活のゆとりを得るにはある程度の生活の保障が必要だと考えるのが普通。
しかし日本人は元々「お金がなくても成り立っていたコミュニティー空間」を大事にしていたのではないのかな。
経済社会に生きるからこその「お金の問題」であって、それは「無縁」を感じる「コミュニティー空間の問題」とは別なのではないのかなと考えている。
だからこそ、言いたくなる気持ちはわかるけれど、お金のことに重きを置くと、議論が当然堂々巡りになるのは目に見えている。
それは「個人ではどうしようもできない問題」が絡んできて、それがある限りはその問題について解決しない言葉のやり取りを永遠にやり取りすることになる。
この手の問題は「無縁」の問題とは違うのではないのかな。
※この点に関しては詳しい記事がありました。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51677145.html
池田信夫 blog : 「無縁社会」キャンペーンの恥ずかしさ
一番最初の番組では「地縁」「家族の縁」「血縁」など、「縁」に重きを置いて、「縁が切れてしまう現状がそこにある」という趣旨ではじめたのではなかったっけ?
今番組スタッフは何を見ているのだろう。
若者の問題でも仕事があれば、生活が保障されれば、家族の縁や地縁は回復するの?
寂しさや孤立感や孤独感が仕事があることで解消されるのかな?
じゃあ「縁」ということを考えていけば、仕事に携わることで「縁」はできるわけですよね。
じゃあどうして仕事やめた途端「縁」が薄くなっていって最後には切れてしまう人がいるの?
個人が会社というある一種のコミュニティーに関わっていて、それがなくなった時の代わりとなるコミュニティー空間が存在しないというのが問題なわけですよね。
無縁の問題は肥大化する。
それは容易にわかる。
しかしそれは雇用や現在困窮している生活の解消では到底まかないきれないし、これは本当に今見ている経済的な問題なのだろうか。
もう一度原点に返って「縁」の問題を見つめなおさないと、本当に取り留めのない状態が永遠に続くことになる。
話は変わるけれどネットについては完全にそこに重きを置くことは危険だと考えている。
当然これはひとつのツール、道具であって、道具に依存してしまうような社会ではいけないし、当然五感を使わないことによって起こってくる弊害がある。
道具は「補助」でなければいけない。
ネットの力については私も実感しているし、絶対会わない人間と知り合って会ったり、何かと支援してもらったり、仕事もしたりしている。
これからもそういうソーシャルコミュニティーを含めネットで繋がっていく人同士の可能性は広がっていくだろうけれど、人間は生物としての感覚を麻痺させては少々難が出てくると推測している。
人は最後には五感を通じて何かを感じたい欲求が出てくると思う。
だから肌身で自己肯定感、その先にある安心感を得られる空間がほしいのだと思う。
雇用の形態は事業者が意識を変えない限りは不可能だし、法律で保障されているはずの労働者としての当然の権利を行使すると、たとえば有給で一ヶ月旅行とかすると、会社にいづらくなるという大変不可思議な職場意識だって変えていかなきゃいけない。
しかしこういうひとつひとつの意識改革というのは経済的な事情が絡んでくるとどうにもできないのではないのかな。
それよりも、私たちが互いの価値観を大事にし合えて、同じ地域に住まう人々が集えて笑いあえる地域づくりって、どういう風にすればいいと思うのか。
ほっと一息つけるような空間作りはどうすればいい。
それでいて私たちは「都市的な特性」、つまりは「個人の価値観が最大限に尊重される状態」を維持しなければいけない。
世の中には足が早い人もいれば遅い人もいるように、精神にも差がある。
世には「こうすれば成功する」というプログラムがあって、それには難しいことが書いていない。
でもできない人がいる。
否定されることによる陰鬱さ、よくわかりますよ。
私だってネガティブなところから抜け出て、少しだけポジティブになるまで15年かかったからね。
この日本の閉塞感は否定されても、抜け道が小さいってことだと思うのですよ。
私はアメリカにいた時、ホームレスになっても抜け出せる、という不思議な感覚に包まれた。
路上で三味線でも弾けるようになれば一日食っていける。
そう感じた。
でも日本では落ちても才能があれば這い上がれるという気楽な感覚はもてない。
何かの瞬間に否定され、バッシングされ、陰口を叩かれるような、嫌な不安感や恐れがある。
それはアメリカでも同じだったのに、何が違うのか。
「前向きな逃げ道を模索していける」ということではないのかな。
大人も若者も、この都市化社会にあって「こうでなければならない」というような論調は互いの未来を狭めるだけ。
P.S.
ちなみにイケノブさんのブログの内容、ちょっと断言しすぎでガチガチだけど、話半分くらいで読むと、ちょうどよい中間地点で着地できそうな感じですよ。
日本には日本人にあったやり方があるのではないのかな。
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