追記:解説(わからない方へ&おさらい)
先進国の中ではとりわけ自殺率の高い日本の自殺者の中に、近年「身元不明」とみられる自殺者が多くなってきている。
また「孤独死」を迎える人の中には、孤立した人間関係の下にあった人のみあらず、「家族」「親族」がいながらも「無縁死」を迎え、「無縁仏」になっているという実態が明らかになってきた。
「行旅死亡人」と呼ばれ、官報で死因や身体的特徴、遺留品などを記し遺族を探す。
「地縁」「血縁」すらも切れ、最後には「無縁死」を迎える背景には何があるのか。
また雇用の不安定さが経済的不安定さを生む中、会社を失うとともに「社縁」を失い孤立する人もいた。
仕事のみに生き、家庭を持たなかった人、家庭を失った人。
独り身でいる人が無縁死への危機感を覚え、死後のことを話し合う生前予約をする人が増え、それに対応する組織も近年急増している。
また、「無縁死」に自治体が対応できない状態に「特殊清掃業」と呼ばれる死後の身辺整理、埋葬を行うNPO法人、組織もあり需要が高まってきている。
「無縁死」の事態を直視し、現代社会に生きる人に何が起こっているのかを浮き彫りにする。
~~~以下、本文~~~
何から書いたらいいのか…書きあぐねている。
1時間見ながら色々な思いがぶわっと出てきた。
無縁仏になる死者数年間3万2千人。孤独死や自殺者も含める。
一年間取材をしていたというから、企画の段階も含めて、ちょうど私が「新・人間失格」を書こうと決心して書き始めた時期と似通っている。
東京に行ったとき、少なくとも感じたものは、無関心さを装った人々の姿だった。
人が多すぎてまるで雑多に見えてくる。
人ごみの中を行くのは、まるで障害物を避けているような感覚になる。
深夜新宿で酔いすぎて大の字で倒れている男性のすぐ横を多くの人たちが通り過ぎる。
自分は助けようと思うよりも、関ったことでトラブルに巻き込まれたらどうしようという思いが先立った。
特に新宿の路地裏など、見知らぬ人の雰囲気が少し怖い。
今住んでいる札幌ではちょっと感じられないような空気がある。
複雑なエネルギーが折り重なって出来上がっている都会。
無関心なようで関心を惹き、関心を惹いているようで距離を取っている。
ある意味「ドライな関係を維持している」と言ったところだろうか。
何か、言葉にできない妙な感触を受けた。
言葉にできることと言ったら「目を輝かせている人が少ない」ということだろうか(ギラつかせている人はいた)。
東京に息づく人の集合した力は凄まじいものがあるけれど、電車の中や行きかう人々、路上で主張する人たちの瞳の奥に垣間見える、ある一種の「諦観」が見えた。
個性があるようで情報に飲まれ、主張があるようでパフォーマンスに過ぎない。
その中で様々なものが練磨されていて、排他され、再集合している。
あの町には鬱憤や欲望が渦巻いている。
そして孤独を抱えながら互いに無関心を装っている。
それを感じた。
ある意味矛盾が多く、ある意味ストレートでひねくれている。
自分が太宰治の原作「人間失格」を現代版にリメイクしようと決心したのも、直感的に肌で感じた、人々の妙な温度だった。
この無縁社会でやっていた大きな問題点は「家族」「兄弟」「親戚」がいるにも関らず「無縁仏」になるという実態だった。
「無縁死が嫌なら支援しあえばいいじゃない」ってツイッターで囁いていた人がいたけれど、じゃあ私は逆に聞きたい。
「何を支援しあうのですか?」と。
故郷に帰りたくても帰れない。人とのつながりが徐々になくなっていく。
たとえば東京であれば「地元民」じゃない人が多かったりする。
それにこれからは「お金がない中高年」も増えていく。
「支援」って何をするのですか?
孤独じゃないように地域コミュニティーを作る?連絡しあう?
私たちは自分で思っている以上に隣人を信用していない。番組では子供が老人の孤独を救った例があったけれど、中年が子供に性犯罪を起こしたとしても子供が中年を狙って金品を強奪しても、金がないばかりに多くのトラブルが起きたとしても、私たちは同じように他人を見ることができますか?
それに身体的な事情を抱えた人だっている。
我々は本音で語り合うほどぶつかり合っていない。
我々は自分には関係ないやっかい事は避けて生きているでしょう?
悪いことばかり考えて、行動することを妨げることほど愚かなことはないけれど、言いたいことは「すぐにコミュニティーや支援システムを適応できるほど我々は常日頃から信頼関係を築いているのか」ということです。
システムに飼いならされている現代人のこと、「支援しあいましょう」と言いながら互いに支援を待ち続けるというこっけいな状態が起こりうることも充分考えられる。
私はそもそも、その最初の人間関係を作る「家庭」から崩壊しているとは思うのだが…崩壊、というよりも「孤立」と表現したほうが正しいか。
意外に目の前の見える問題にばかり気をとられていたら、問題が発生している根本にたどり着けないかもしれない。
原点はどこにあるのか、という問いはこれからもなされ続けなければいけない。
そのためには、多くの人の苦痛に満ちた声にひとつひとつ耳を傾けるという途方もなく根気のいる作業をしなければいけない。
番組の中で出てきた「特殊清掃人」のブログをずっと見ていた。
妙に凝り固まった考え方の人がコメント欄にわいていて、ここにURLを載せると、それを助長させてしまうのではないかと心配なのだが、大事なことを訴えているのでぜひ載せたい。
http://blog.goo.ne.jp/tokushuseisou
特殊清掃「戦う男たち」
我々の孤独を救うのは、我々の中に流れている、この血の熱さだけだと思う。
思いやりとは一言に言うけれども、本当に人を思いやるということは、「自分の血肉を差し出す」ことにも似ていると考えている。
その痛みを感じたくないのなら、距離を取ったほうがいいし、関らないほうがいいのだ。
死を間近にしている人のブログを読むと、生きていることの幸福を感じる。
人も本来ここまで高度な知恵を持っていなければ、他の肉食獣に追い立てられ、食われる運命にあったはず。
そうではないからと言って、正直人間だって明日の運命すらわからない。
人の一番の特色のひとつに、言語で感情を構成し、主張を伝達できる点がある。
それはある意味罪を意識させ、後悔を重ねさせることだろう。
すべては当人の「自己責任」の問題かもしれないが、他者は当人と接する時、この「罪」とも接する強さを持たなければいけない。
我々は仕事をして何を得ているのだろう。
お金を払いあって何を得ているのだろう。
生きていくための仕事。
生きていくためのお金。
単純にそう考える時に、末路として待っている無縁死。
先ほどの「支援」のこと、「ならば震災の起こった神戸では大規模コミュニティーができていて今も密接に連絡を取り合っているはず」と思い、震災体験者に電話したが「生活が戻ったら各々の生活に戻っていって特に密接に関っているってわけでもないよ?」とのこと。
15年たって「都会」が戻っているようだった。
実際には他の地域には違う何かが残っているかもしれないが、それは現地に行かなければわからないだろう。
人は何に慣らされていき、何を忘れて生きられるのか。
年老いた時に気がつく非情な現実に、人間社会そのものの欠陥を見るのか、それとも「こうなったのもしょうがないことだ」と思うのか。
私だって、「無縁社会」の実態を他人事としては見られない。
自分もこうなる可能性を充分含んでいる。
都市構成のありかた、地域社会のありかた、目の前に見えるすべてが我々に無関係ではない。
「心の本音」だけが、最後の切実な訴えになる。
それを面と向かって言いづらい関係で、我々は「うまくやっている」と思い日々を生きている。
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