番組の中で思い当たる節があり、指摘されていない部分があった。
それは、母親のノートが一番典型的だったが、「大嫌い」「私の努力を返して」など、子供の育ってきた環境・人格形成そのものを否定する単語を使っているということだ。
大人になってみればまったく気がつかないことだが、子供時間にとっては、たかだか10年でも「一生分の時間」である。
これが30年40年暮らしてきた人間との大きな違いであり、例えば30の時に言われる否定が、ある程度「私のすべてを評価されたものではない」と分散でき、過去の経験上新しい手段を模索できるものが、子供にとっては「一生分を否定された」となり、大きな衝撃となり、経験乏しい人生の先行きを曇らせる。
今回「虐待」とつけていたのは、いささか過剰ではあるが、注意を引きつける言葉としては充分だ。
特に親が気がつかないことがある。
それは「小さな否定語」である。
これは「こうしてはいけない」というメッセージ・態度が毎日重なり子供が身動きが取れなくなるということだ。
子供は何も分からない。
だからこそ子供なりに模索して悩んでいる。
一生分の知恵と経験をフル活動させて毎日考えているのだ。
例えば一日一つの否定語を与えるとしたら一年で365回も受けていることになる。
これを大人の立場で想像していただきたい。
一日5回ずつ。
毎日自分の存在、生き方を否定されたらどうなるか。
おそらくほとんどの人間はおかしくなるのではないだろうか。
それでも「社会に慣れるためには耐えるしかない。それが稼ぐことであり…」「社会に出ればこんなことは当たり前のことで…」と考え出す方、ちょっと待っていただきたい。
子供の人格形成をする上で最初から「人間性を否定する考え」を押し付けていることに気がついてほしい。
と、これらの意識改革の前に実は親自身が子供時代に抑圧された、親から与えられたものをリレー形式で子供に与えている、という点が指摘されていた。
これは私の実体験から照らし合わせても、よくわかる。
父親が口であれほど嫌がっていた、コンプレックスを持っていたいくつもの事柄を、そのまま祖父から受け継ぎ、子供へと与えつづけていたことを父が無意識にしていた。
この日本は家族の問題の根本を語る前に「世話になっているから」「食わせてもらっているから」「社会では」「常識感覚」という「上からの考え方」が強く、子供心にも非常に反論し辛い環境があったのを覚えている。
当然先ほどの「否定語」の問題に立ち戻れば、私の場合は「逆らわない方がこれ以上責められずにすむ」という解決法を導き出し、意見を聞かれたとき、一切口を開かないことでやり過ごしてきた。実際どのように責められようが、この方法が一番効果的ではあったが、親は「都合が悪くなると黙り込む」と私を責めた。そんなことはどうでもよかった。問題は「苦痛を受ける時間の削減」に自身の意識が絞られていた。
そんな積み重ねが身動きを取れなくさせ一番大事な「自発性」や「意志」を著しく削ぎ、問題解決への活力を失わせ「無気力」「無関心」「不安」「意味のない焦燥」「突然の怒り・苛立ち」が止まらなくなる。フラッシュバックのようにストレスを受けた拍子にくる。それはまったく違う考え事でのストレスでも引き金になるので正直30歳を過ぎた今でも困っている。
番組の中で不登校になっていた子供がいたが、当然だといえる。
子供も親が何を言うかわかっているのだ。
だからこそ、「親に相談しても何も解決しない」「親に打ち明けるだけで苦痛を強いられる」という意識のみが強く先行し、心を閉ざす。
ここでもし「殻に閉じこもってばかりで」と言ったら、もう崖から海へと背中を押してやるようなものである。
作家の重松清さんがとても重要なコメントをしていた。
それは親が子供の将来を不安に思うあまり「どうすれば幸せになっていくのか」よりも「どうしたら不幸にならずにすむのか」を考えているという点だ。
つまりここに「肯定語」が多くなるのか「否定語」が多くなるのかの差がはっきりと出てくると考えるのだ。
人間否定すべきところなど、いくらでも出てくる。
誰しも未熟だし、子供なら余計にそうだ。
社会や周囲の世界のことを何も知らない子供に「社会ではこうだから」という考え「常識感覚」からの締め付けを行えば当然「否定語」が多くなるに決まっている。
ここをぐっと我慢して「この子が幸せに思うことは何だろう」と子供自身を観察することで「肯定語」が多くなるのではないだろうか。
ここで重要なのは自分が持っている価値観をまず子供に当てはめないということだが、恐らく親自身が一種の強迫観念のようなものにとらわれているから「これはダメ」「どうしてできないの」と焦るのだろう。
それでは逆に親自身が追い詰められるのは当然なのである。
「個人の幸せを考える」ということは言い換えれば「社会の評価」以外のところで何か褒めた部分はあるか、という点が最も「個性」という「目に見えない評価」、言い換えれば「人間性」を育てることに繋がると考えるのだ。
躾というのは最低限学んでおくべきことだ。
身につけることは一朝一夕ではできない。
何度も繰り返しが必要になる。
教えられるだけでは養われない。
自発的に考えなければいけない。
自発的に考えるということは大人が知っていることを子供へコピーさせることとは違うのである。押し付けられるだけでは「身」につかず、考えなければ「美しく」ならないのである。自発的な行動と行動への考察。この二つができて「躾」として身につく。
躾をするさい子供の考えに対して口をつむんでいることができるだろうか。
最後まで意見を聞いて、それを肯定的にまず捉え、なぜ子供が「それを正しいと考えるのか」最後まで引き出すことができるだろうか。
ここでいきなり上から「それは違う」というのは簡単なのだ。
上からの姿勢が、やがて子供の自発的な考えを殺すことがあるかもしれない。
極端に聞こえるかもしれないが所変われば常識も変わる。例えば海外。そこまで行かずとも日本国内で異文化を扱う場合。違う価値観と対峙した場合。
そんな時大事になるのは一つの「答え」に固執することではなく、多様な手段を模索する柔軟性なのだ。
ここからが重要な点なのだが、通常親は自分のコンプレックス、思春期のストレスを思い出せる人は少ないだろう。
私はメモに取っていたので思い出せるが、40ぐらいの人が日記も見ずに思い出せるだろうか。
それよりも自分には、そんな抑圧された問題はない、うまくやってきたのだ、なぜ子供はできないのか、となりがちである。自分がやってきたことを他人がうまくできる保証はないのに何故かそう思いがちだ。
自分の嫌だった部分は心理的にも「忘れる」ことで「心のバランス」を取っているため、抑圧されたものが思い出せない、思い出し辛いのは当たり前だ。
よってこの「抑圧された心理」をほじくり出すとなると非常に苦痛を伴う。
ここは自分一人でやるには重荷になってつぶれてしまうかもしれない。
もし辛くなり心理的に苛立ちや悲しみや不安などが多くなれば、必ず底に潜んでいるが、無理に引き出さずにカウンセリングを受けた方がいい。
自分の悲しい過去を思い出す、特に忘れたいほど辛いことを思い出すことは誰でも嫌がる。
しかし、ちょっと待てよと、ふと思い返してみて、私などは自分が受けた苦痛の遍歴、そこから立ち上がったという過程を「正解」だと無意識に他人にも強いている癖に気がついた。
あれだけ自分も嫌だと思っていた父親の否定癖がいつの間にか口からポロッと出ている。
出ずとも思うようになって言いそうになる瞬間がある。
意識的に抑えないとなかなか辛い。言えば楽になるが当然嫌われる。
そう、コンプレックス、抑圧されたものを出せば「スッキリ」するのだ。
思い当たるふしはないだろうか。子供のことでうまくいくと「スッキリ」することがあり、逆だと「苛立ってたまらない」ことがあるとしたら、自分の過去を思い返し紙に書き出してみることをお勧めする。
必ず何か出てくる…だが、先ほども書いたように蓋をしたものをこじ開けるのは困難な作業なので一人でこれ以上はダメだと思ったらカウンセリングを受けることをお勧めする。
子供は親の道具ではない。こうなればよいと思いがちだが、子供にとっては迷惑かもしれない。それを逆手に取ってあえてやり早く親元から出て自由に過ごせ、という作戦を取る親もいるが、普通は押し付ける。逆手はそのまましっぺ返し・逆効果になることが多い。自分の思い通りになってくれたら、それ以上幸せや充実感を感じることはない。いつの間にか「子育て」が「プロジェクト」になっている。
不登校の子供が少子化なのに横ばいになっているということは「著しく悪化」しているのだ。
最悪の場合「将来的な自殺の引き金」になることを頭の隅に置いていただきたい。
親も「なぜこんな子が生まれてきたのか」と思うことも不幸だが、子供から「こんな親に生まれたくなかった。なぜ子供を生んだのか」と思われながら死なれると、もう取り返しがつかない。成人になれば最終的な引き金は「社会」が与えるが、自己肯定をしている人間は自殺しない。
脅すわけではないが、やっぱり子供心に追い詰められ過ぎると自殺を考えたりするものだ。
お互いにとって不幸な環境を打開するためには、まず立ち返って「自分の環境」から考え直す必要があるだろう。
思いのほか、脅迫的な焦燥感を持って子供に接している自分に気がつくかもしれない。
子供はその「雰囲気」を敏感に察知している。
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「子供」という「規格品」 自殺者から見える「死ぬほどの悩み」2012年2月21日追記
「賢さを褒めるより、努力を褒めた方が人は伸びる」という研究結果。
頭いいねと褒めると失敗を恐れるようになり、努力を褒めるとチャレンジしたくなる、ということ。
「より速く適切に学べる人」:その理由(WIRED.jp)
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