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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

03/14

Mon

2011

東北地方太平洋沖地震


地震が起きたころ、ちょうど温泉地に向かうバスの中だった。
日曜に帰ってきたけれど、ずっと落ち着かずテレビばかり見ていた。

日曜、千歳近辺では赤く滲む夕闇の中、自衛隊車両が何台も夕日を横切っていた。
被災地への支援車両であることが、車両側面に書いてあった。

阪神大震災を乗り切ってきた友達がいる。
「津波と原発がある時点で、うちらのとは違うわ。思い出す。怖い」
と言っていた。

この地震の惨劇を見ながら、別のことを考えていた。
この日本の未来と、情報そのものに対してだ。

今は非常時なのでへたな推測で物を言うことは避ける。
だが、不穏な空気を察知した。
この後、復興していく日本を守るために、なるべく手が打てるように自分が動いていくことが大事なのではないかと感じた。

破壊をもたらすものは自然災害だけではない。
この点が一番恐ろしい。

今はこれから起こってくる様々な問題に対し、一刻も早い手が打てるよう最大限の選択肢を選び取っていくことを望んでいる。
個人や組織の都合など、後になってからでよいはずなのだが。

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03/09

Wed

2011

きことわコメント

検索エンジンで来た人書評はこちらの方です。

朝吹真理子さんからのメッセ―ジをお届けします(「婦人公論」より)

『読者の方ひとりひとりが抱いた読後感がすべてです。作品を自由に読んでいただければうれしいです。書く時にはイメージの連なりを大切にしています。書き手個人の体験や嗜好といった、べとついたものを徹底的に排して、浮かんだイメージだけを言葉に写し取る、その作業の繰返しです。』



…というコメントをいただきました。
ありがとうございます。
もしこの作者コメントを読んでいたとしたら、私は逆に腹がたってあの作品を読めなかったでしょうね。

正直に申し上げて詩を書いている人の中には、やはりこういうこと思うんです。
私もそうでした。
そしてその先にあるものは結構自己満足だったりするのです。
作者が何を目指しているのかは現段階では定かではないし、このコメントを覆す作品を書くかもしれないので現段階での私も思いを勝手に書いているのですが、このコメントを紹介していただけたということは好きな作品だったのでしょうね。
なので、感情を抑え抑え書かせてもらいます。

私はこういう感覚が日本語における詩情というものをダメにしたんじゃないのかなと考えてます。
「詩」という言葉は作品紹介の時に聴いたものであって本人が言っている言葉ではないので、周囲が勝手に意図して付け足していることだとは思います。
なので、詩情というものも作品の中から排除すると、自分と他人というものを混同しているのではないでしょうか。
このコメントを真に受けると、作品として視点が常にすっと凝縮されていくように一点にのみ集まっていくというのは当然ですし、全体としての雰囲気や力配分が均一化され、人間の世界ではなく、風のような上下左右もない空間世界、情感世界になるのは明らかに作者が意図した帰結でしょう。
なので、私が書いた感想は作者のコメントに厳密に照らし合わせるのなら間違いであることは明白です。
その視点ではコメントを紹介していただいた意図はまったく間違っていません。

しかし「伝える」ということと「言葉を使う」ということの因果において、とても達観しているとは感じられないし、因果から逃れられる力を持っている作品ではないと判断しました。
もしこの線で書くのだとしたら既に設定からして間違ってますしね。
この2つの因果から作り手が逃れられるとしたら世界でもトップクラスの実力を持った人でしょう。
世界の文学関係者が注目しだします。
つまり言葉を使うものとして「言葉の因果」そのものから逃れられているのだとしたら、彼女に対して褒めちぎることしか方法はないし、早くノーベル賞とってくれないかなって思います。

読者は読者の立場で作品を読みます。
好きでいいんです。
貶された部分があったとして、作者の真意がこの人わかってないなとか、このヤローふざけたといいやがってとか、そういう気持ちを持つのもいいんです。
私は作者の立場から作者を見る。

これから日本語はどんどん変化していくでしょう。
時代の常です。
そして村上春樹よりも彼女のような文体を選び取っていく可能性は否定できないところがあります。
都市化が進み、情報化の中に埋もれる個が、一体何を見出していくのか。
個から逃れ、より個人よりも集団レベルで上下もなく均一化していくことを選び取るのならば、彼女の文体は完全に未来型であり、そして個の薄れた人たちに最も好まれる作品として見直される時期も来るでしょう。

「ここには作者の選び抜いた言葉だけが揚げられていて、読み手の無責任な口出しを許さない。」山田詠美
当然ですね。
作りこまれた情感世界の中に他人が入り込むことなんてできないのですから。

また「抽象画」ということ言っている人がいます。
視点のところでも物に随分視点がいっていることを書きましたが、確かに絵画的な手法であるともいえます。
その点では優れている。

まず視覚の段階で人が物を認識できるのは「光」があるからなのは最もなことですが、それ以外に重要な要素があります。
「影」です。
このような「陰陽」の関係はどれほど排除しようと無視できない。
それすらも「徹底排除」しているのだと作者が思い込んでいるのだとしたら、書き手としての視点として物足りなさを感じてしまうのです。
排除したときにかかってくる「負荷」は何でしょう。
そのことを彼女がどこかで書いているのなら教えてください。
これを完全に見抜いているのだとしたら、ただ私は作者の手の平で踊っているに過ぎないただのサルですから笑ってやってください。

最後に繰り返しになりますが「言葉を使う」という、そのものにかかってくる因果を見事に逃れている達観した作品ならば、褒めちぎっていたと思いますよ。

P.S.
ここからは詩のことです。
べとついた感覚を徹底排除するという感覚はよくわかります。
それは少しでもこういうものを入れると自分の中のイメージや感情がかき乱され、作品に亀裂が出てくる。
空気の入った茶碗のように、心という竈の中で焼き上げるときに音を立てて砕け散るのです。
しかしここには他人との戦いがない。
自分との戦いなのです。
でもこれは「小説」ですよね。
なんのために「小説」ってあるのでしょう。
書き手によって答えは様々だし、時代によって変化していくでしょう。
そしてその答えを私が強要することは大変愚かではありますが、言葉を使うことの原点は何だろうと私はいつも考える。
言葉を使うって何でしょう。
いくら技術が練磨されようと、そこを勘違いしてはいけないのではないのかなと思います。
そして詩はこの世界に存在しているあらゆる「自然」を認識することですが、彼女の感覚からは非常に「都会的な自然」しか感じない。
でも、きっとこの「都会的な自然」と「生の自然」の区別がつかないくらい現代人は感覚を失っている。
私が主張することもやがて時代とともに滅びていくでしょう。
そういう運命を背負いながら、私は私の立場で物事を考えたいと思っています。

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03/06

Sun

2011



第144回芥川賞受賞作品。
「苦役列車」を読んだら「あ、そういえば」と気になって、どうしようかなと思ったけど結局読むことに。
最初から先走って書くと、こんな様子が妄想できた。

「ねえ、今回『苦役列車』推したいんだけど、ちょっと生々しすぎる。この男子寮のむせ返るような酸っぱい男臭はなんとかできんものか」
「じゃあ、今回は2人にして、女性はどうでしょう。生々しいのを緩和するために、さっぱりしてて後味が口の中で溶けていくようなものがいいよね」
「あ、いい作品がありますよ。これにしましょうか。経歴とも申し分ないですよ」

なあんて、流れなんじゃないの?と勘繰りたくなる。
確かに「苦役列車」の中和剤としては充分だろう。
でも手ごたえを感じない。
というのはもちろん「生々しさ」や「リアリティ」ではない。

最初から順を追って話すと、まず「きことわ」って何?と疑問を持つのは当然だろう。
それで最初開いてわかる。
「ああ、主人公の名前を合体させたものね」と。
それで何で名前を一緒にしたのかという疑問もうっすらだがわかる。

正直に書くと読み終わってみて、私はこれが「少女が見る大人の夢」なのか「大人が見る少女の夢」なのか、区別がつかないところがあった。
というのは当然主人公の年齢は子持ちで中年に差し掛かるところであるとわかるのだが、そこには子持ちの主婦や女性たちが持っている生活における生々しさが一切ない。
それにこの作品だけかと思って他のも見たら同じだったので作者の意図したところだろうが、優しい漢字をあえて開いて表現している。
つまり「やさしいかんじをあえてひらいて表現」しているのだ。
ひらがなにしている。
テレビで聞いたときは「詩情」という言葉が出てきたけれど、この漢字の開き方における文章表現が「詩情」なのだろうか。

話が前後したが主人公描写に戻す。
ひとつだけ非常に感心したことがある。
それは「物への視点」だ。
男性はここまで事細かに物へ視点がいかない。
だいたい男性の視点になると「興味のあるもの」に隔たったりするが、女性視点は生活において存在する様々な物へ視点が移り、認識していく。
しかしとても残念なのは、まるでスーパーや百貨店に陳列される時に使われる「よくできた写真」のように綺麗過ぎて生活感がない。
たとえば野菜ひとつでも葉っぱがしなびていたり、綺麗そうに見えるトマトの一部分が傷んで食べられないほど味が変わっていたり、鍋についた小さな汚れ、洗い残し、作ったご飯の食べ残しなど、当然生活していれば汚れたものはたくさん出てくる。
この物への綺麗過ぎる描写が当然主人公たちの人生にまで及ぶのだから余計に「ふわー」と浮いたような気持ちになるだろう。
この作者の視点は、まるであたたかい昼ごろ、木漏れ日の中でうたたねをして、きらきらと揺れながら夢を見るような印象なのだ。
これは実際の子持ちの30代40代の主婦に聞いてみたいのだが、恐らく私と同じように「子持ちで生活しているような傷跡がない」という感想を持つのではないだろうか。
幼少期の体験が記憶の中のノスタルジーだと百歩譲って許せたとしてもだ。
まるで少女が大人の夢を見ているような感覚しか持たないのが一般読者の感想であろうと思う。
しかし、この書き方、この雰囲気、「ポスト江國香織」になるのではないだろうか、という予感はする。

そして問題の「詩情」についてだが、ちょっと疑問点がある。
詩というのは、ぶれないし、そして明確な視点を持っている。
しかしこの作品にはまどろんでいるような心地よさが全体的に漂っていて、まどろみの薄れてゆく視点の中に正確なピントあわせが存在する、というレベルまでは達していない。
ある人がこう言っていた。
「詩というのは書き始めた頃には完成している。啓示のような皮膚感覚を文字にしているだけなのだ」と。
私はこの言葉に同意する。
そして詩情とは読む側にも皮膚感覚における強烈なインパクトがなければいけない。
また萩原朔太郎もこう書いている。
「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」

確かにこの作品は、まるで両者がひとつになりたがり、若かった頃の肌をなであい、そのきめ細かさを確かめあっているような、その退行は赤子のもちりとした、つやつやした肌の質感まで戻るのではないのか、という印象すら抱かせる。
しかし、しかしですよ、ここで一つの違和感が出てくる。
「主人公たちの年齢と環境」だ。
多くの読者もこのギャップに違和感を感じるのではないかと思っている。
この話が少女の話で一貫されていたら非常に完成度の高い作品になったかもしれない。
少女の無垢な純粋性の結晶を描ききった名作になったかもしれない。
しかし大人はもっとどろどろしたものと向き合っている。
読書する時にその経験を重ね合わせてしまう。
この話では「現実逃避」にもなりがたいのだ。

この話はこの漢詩がぴったり似合う。

春眠暁を覚えず、
処処啼鳥を聞く、
夜来風雨の声、
花落つること知りぬ多少ぞ。
~「春暁」 孟浩然~

とにかく視点はある。
踏み込み方が甘いだけの話であって、これからの成長に大いに期待するべきではないだろうか。
と、偉そうに書いたところで今回の感想おしまい。

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03/05

Sat

2011

誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功の法則



私が知る限りでは、資本主義社会における成功法則を世界で最初に打ち立てることができたのは、アンドリュー・カーネギーの依頼を受けて「成功法則」を完成させたナポレオン・ヒルだろう。
その「成功法則」にも、この本にも特に難しいことが書いているわけではない。
特にこの2冊の本は、すぐにでもできる簡単なことが書かれている。

一番最初にナポレオン・ヒルの本を読んだ時、精神的にとても辛い時だった。
行動することそのものに対してとても苦痛を感じ、長続きせず挫折し、余計にネガティブになっていて、当時の私にとっては「自分をダメにする本」だった。

というのは、すべての行動の前段階となっているのは「精神」であって、肉体ではない。
その精神がボロボロであるならば、精神の癒しが必要なのだ。
精神がある程度ちゃんとしていなければ行動するだけで精神が痛めつけられる。
だから精神の癒しには、ネガティブなものを遠ざけていく必要性がある。
つまりそれは自分の言葉であったり、他人の存在であったり、ネガティブにさせる対象であったりする。
その環境を完璧に用意することは非常に困難だが、減らすことはできる。
そして、大事なことは自分の小さな「成果」を絶対に否定しないことだ。

日本人は完璧なものを要求するふしがあり、それは「成果」や「評価」や「対比」であったりする。
そしてあらゆる基準で自分を見られ、その基準に当てはめて自分の人間性まで自己評価しがちだ。
しかしこれは間違いなのである。
当然「社会の評価」は生活というものにも関わってくるし、この「他人の目」や「評価」という呪縛は、平均から劣っている人間にとっては苦痛だし恐ろしく重苦しく、酷くなれば生きている意味すらも否定してしまうほど強い。

この呪縛を取り払うには非常に時間がかかるが、「評価」というものは「ある一定の”審査基準”に当てはめて見られるもの」であり、当然「将来の自分」でもないし、「自分が持っているすべて」でもない。
ここに「呪縛」から逃れるチャンスがある。
つまり通常人の思考はこの呪縛の中に入ると「相手が設定した基準の中で努力しようと行動しだす」ものだが、呪縛が解けると「評価ではくくることのできない自分」を高めようとすることができる。
そしてそこまでいきつくことができれば、後は小さな積み重ねを徹底的に視覚化し、声に出して褒め、他人の評価を受け流しながら自分の魅力や長所をとことん伸ばしていくことができる。

しかし、会社組織で働いていると、必ず「評価」を口に出し、優劣をつけられ、ネガティブな思考を植えつけられがちだ。
会社人にとって時間は「流れているもの」ではない。
「区切られているもの」だ。
だから会社人にとって一番大事な考え方は自分の時間をいかに区切って整理していくかにかかっていると思う。
これは色分けして視覚化していくとすむことだが、大事なポイントは「完璧主義」に決してならないことだ。
無理の無い計画と時間の融通性、小さく見積もって±10、多く見積もって±20ぐらいの時間の融通は欲しい。
融通性は計画にも欲しい。
一日の計画として、これもやはり完璧主義になるのではなく、自由にプランを足したり引いたりできるとよい。

私はここ最近は自分でできたプランには金色のマジックでできた内容をカレンダーなどに書いている。
それがたくさんできると結構圧巻だ。
私は計画を立てるとその通りにできず、逆に落ち込むので曖昧にしか計画は立てない。
私にとってはこの「曖昧さ」がちょうどいいのだ。

この本を読んでみて気がついたのは、昔はやることでさえ苦痛であったのが今は半分くらいは自然にやっていた。
どうしてだろうと考えたのだが、無理をせずに自分の現状を徹底肯定していたからだった。
まず他人の評価、自分の実績、これらの「評価」に値するものをすべて頭の中から取っ払った。
そして自分の環境、レベル、実行したいもの、足りないもの、などを冷静に分析しだしているのかもしれない。
最も変化してきているのは、苦痛だった「行動」に喜びを少しずつだが見出せるようになってきていることだろうか。
行動することにおいて「快」の感情はとても大事だ。
だからこそ小さな成果には他人のことなどおかまいなしに、一人でそっと自画自賛してあげればいいのだ。
そんな「小さな違い」を見つけてあげることができるのも自分しかいない。
他人は「大きな変化」しかわからないものだ。

日本人の多くは「失敗」を「取り返しのつかないもの」として考えがちだが、「失敗」こそ「英知」なのだ。
この失敗に対する反省を繰り返して人は大きなものへと近づいていく。
失敗以上に優れた師匠はいないのに、この失敗をネガティブに捉えるとは、とても残念なことだと今の私なら思う。
特にこの手の失敗を悪く言う人間は「破壊者」でもあるので付き合いは考えたほうがいい。
失敗は自分だけにしかできない貴重な体験だ。
失敗を恐れず、どんどん行動していくことこそ、自らの人間性が輝いてくるものと私は信じている。

あなたが若ければ若い方がいい。
「評価」という呪縛から自分を解き放ち、より輝く人間になるべきだ。
そして良い人間とは、他人を生かすことのできる人間になるということだ。
あなた自身が他人を殺す「破壊者」に進んでなってしまってはいけない。
人を生かすことこそ、最も素晴らしい経験と人間性であると私は信じている。
一緒に頑張ろう。




P.S.
自信ってのは根拠がなくちゃ役に立たない。
その根拠は最初は他人の評価に頼らない根拠でなくてはいけない。
この根拠を客観的に列挙できるようになろう。
そうすればあなたは誰も知らない強みを得たことになる。
次はどうすればそれが活用できるのか、武器として、防具として役に立つのか考えよう。

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03/03

Thu

2011

今よりも、もっと愚かだった若い頃、今よりも、もっと鈍く視野が狭かった。
感性だけが強く、周囲の世界を察知していた。
そしてそれに合う言葉を捜し、身体感覚と合致させ、そしてあたかも自分は「このことを経験したのだ!」と錯覚していた。

小説を書いた。
私の書いたものを理解してくれないと悩んだ。
それは私の作品が悪いのではなく、相手が理解しないせいだと思うこともあった。

私は人と話した。
人とのずれを感じた。
分かり合えないと感じたこともたくさんあった。
それでもたった一つの救いは、ほんの少しでも誰かの力になれたらと、これも当時としては独善的な感情で人に寄り添っていた。
そのうち気がついた。
自分が知り、知識を得、そしてわかっていたつもりのすべてが、愚かな過ちであったことを。
私はもっと過去、今より10年近く前の文章を恥ずかしくて見れない。
今10年前の私がいたら、心底説教をし、何一つ理解していない思い上がった馬鹿野郎だと、罵倒するだろう。
どうしてそこまで人を無視できるんだと。

当時の私はこう思うだろう。
俺は俺のやり方でちゃんと人と寄り添ってる。
力にもなろうとしている。
お前みたいに何も知らないやつに言われたくはない。

そんなことが言えるのも、無知で視野が開けていなかったせいだろう。
借り物の言葉で、借り物の錯覚で、それを自分のことだと思い込んでいた恥ずかしさは今思い返せば死にたくなるほどだ。
自分の行動や言動を独善的に肯定していた。
その独善性が人に嫌われているにもかかわらず、自己満足に浸って独善的な価値観を高めていっていた。
周囲の理解が得られず、悩んだ。
どうしてだかわからなかった。
自分と向き合うことなく、等身大の自分を理解する前に、本当の現実から逃げた。
今なら少しだけ、現実というものがわかる。

私は書くという行為を通じて、同時に「伝える」ということを知っていった。
私は書こうという欲求を通じて、同時に人の思いを知っていった。
自分が物事を頭の中で固める前に、じっと人の思いを待つことに専念した。
たいてい、喧嘩になったのは「~は~だから」というような決め付けで物事を見た時だった。
今ならよくわかる。
人は馬鹿じゃない。
自分で原理くらいは薄々わかっている。
だからたとえそれが真実だと指摘されても、どうしようもない場合だってあるんだ。
だからお前はその言葉で人を傷つけているのが一切わからない勘違い野郎なんだと。
当然、少しずつ孤立していった。
当たり前の話だ。
でも、当時はそれがどうしてなのかわからなかった。
自分は正しいことを言っているのに、あいつが気がついてないだけだと思っていた。
本当に、本当に愚かだった。

人と寄り添い、その思いをじっと聞き、どうしたらこの人の言葉や感覚に近い形でアドバイスしてあげられるだろうと、精神力に余裕のある時、人の相談に乗っていた。
「伝える」ということが少しだけわかった。
それは同じ性質を指している言葉でも、解釈の仕方ひとつで、すべてが壊れてしまうことを。
それだけ、相手の感情は自分が思っているよりも繊細にできている。
その中でたくさんの過ちを犯した。
恨んでいる人も多いことだろう。

愛情も、憎しみも、悲しみも、人の失敗も、独善的な錯覚も、体験もしたし、見てきた。

孔子の論語に有名な言葉がある。
「学びて思わざれ ば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し。」
学んで考えなければ学びとして開けてこないし、考えて学ばなければ独善的になって間違いを犯す。
このことを、すっと読んで「わかった」のなら、たぶん私と同じ過ちを犯す可能性がある。

まず、学ぶことが生半可ではいけない。
学ぶは真似る。
人のことであれば人の思いを正確に把握するように努める。
自然のことであれば自然の力の流れを妨げないようにするにはどうすればいいのか知る。
この学びさえもできないようで習得した気になり、思索に励めば既に過ちが待っている。

体感し、感じ、わかった気になり、他人の意見にも想いにも思想にも、謙虚に聞いているようで独りよがりな態度を押し付ける。
そんなことができるのは、何一つ理解していないし、自分がまったく見えていないからなんだ。
そして人にとって一番大事な学びは本の中だけにあるわけではない。
人の中にある。

本を読んで人を無視するようでは知識が毒にしかなっていないし、独善性が強ければ自分の言葉や知識で人を傷つけていることすら理解できない。
そういう盲目的な視野を持つことは、私なりの表現で言えば「死に絶えている」。

そのような人間に「生きている」友達や人間が寄り添ってくるはずがなかった。
当時の私は文字通り死んでいた。
生きてはいなかったんだ。
これも自己弁護ではあるが、昔よりはほんの少しだけ成長した自分に、かすかな贖罪を感じるのだ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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