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あさかぜさんは見た

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02/17

Thu

2011

米書店大手に淘汰の波 ボーダーズが破産法申請(日本経済新聞)

※リンクが貼れず不便なので転載。

 【ニューヨーク=杉本晶子】米書店チェーン大手に淘汰の波が迫ってきた。16日には全米2位のボーダーズ・グループが米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請した。電子書籍端末やタブレット型と呼ばれる多機能携帯端末の普及で、本や雑誌をインターネット経由でダウンロードして読む消費行動が広がったのが背景だ。ネットでの書籍販売も広がり、従来型の書籍流通モデルは変化を余儀なくされている。

ボーダーズの閉鎖予定の店舗(ミシガン州)=AP裁判所への提出書類によると、ボーダーズの負債総額は12億9000万ドル(約1080億円)。大口債権者には、英出版大手ピアソン傘下の米社など、主要出版社が名を連ねた。ボーダーズは米国内店舗の約3割に相当する200店を4月末までに閉鎖し、規模縮小で再建を図る。従業員も削減する方向。金融機関との間で、再生手続き中に5億ドル強のつなぎ融資を受けることで合意した。

 ボーダーズのマイク・エドワーズ社長は同日の声明で「長期的に事業を続けるための資金の手当てがつかなくなった」と説明した。同社は1971年創業の老舗だが、2010年1月期まで4年連続で最終赤字を計上。四半期では10年8~10月期に債務超過に陥っていた。

 米書店チェーン首位のバーンズ・アンド・ノーブルも2010年8~10月期の最終損益が1200万ドルの赤字となるなど収益悪化が続く。オンラインでの書籍販売額は増えたが、実店舗の既存店売上高が振るわなかった。一方、米アマゾン・ドット・コムは1月末、電子書籍のコンテンツ販売がペーパーバックの販売数を超えたことを明らかにした。

 米国では書籍市場全体が07年をピークに縮小に転じている。金融危機を引き金とした消費冷え込みに加え、端末さえあれば比較的手ごろな値段でコンテンツをダウンロードできる電子書籍の普及で、従来型の書籍が押されている。




日本でも大型書店に追い詰められ、小さな書店が次々と閉店していっている。
ちょうどシネマコンプレックスができて、小さな映画館が次々と閉館するように。

書店は本を売る場所だ。
しかし今本はあふれかえるほどある。
そして電子書籍の登場により、紙の本よりもはるかに面白い本が出てくるのは時間の問題だろう。
紙でこそ出していないものの、才能のある人間はこの日本にもいる。
あとはその演出方法が整えられれば、チャンスはより拡大する。
そうなると出版社も危うくなるわけだが、その前に書店が打撃を受けることになる。
アマゾンなども次々とサービスを拡大し、家にいながら本に対する人の感触を調べられるようになった。

そもそも、本の魅力とは何だろう。
それは元々「共有したい」という欲求だったのではないかなと思う。
たとえば和歌や伝記や神話には、どこかしら人間らしいものがあって、有体に言うところの「普遍性」がある。
今は好みが多様化しているし、よりニッチになってきているかもしれないが、人間らしい欲求というのは、人間が人間でいられる限り変わらないと思う。
というのは、やっぱり本から何かを得て、無駄に終わらせることはできないわけで、何かしら共有したくなる。
それは「感覚」だったり「考え」だったり「絆」だったりする。
それらのものが一緒に体験できて膨れ上がったら、これほど面白みのあるものはない。
だから人は繋がろうとする力を持ち続けようとするのだ。

書店は、本を売る場所だ。
しかしアマゾンは本を売る以上の機能があって、作家コミュであったりレビューであったり掲示板であったり、本に馴染みのない人でも参考になる。
現在ある大型書店もまた本を売っている。
だから、小さな書店は「本を売ってはいけない」。
つまり大型書店と同じことをしていても潰れるしかないし、アマゾンよりも魅力のあるお店にしなければいけない。

じゃあ、どうすればいい?
普通の本屋では紹介しないような埋もれている名作をアピールして欲しいし、棚だって特殊なカテゴリーで出来上がっているものがあってもいい。
より書店員は専門性を求められる。
私はこれからの時代「本におけるライブ感覚」を引き出したものが生き残っていけると考えている。
書店における「本のライブ」とは、たとえば子供が集まっての感想会だったり朗読会だったり、書店員からの本の力説だったり、大人同士が忘れていたことを真剣に思い出しあったり、「文脈の力を人の体で直に伝える」ことであると思う。
どうしたらこの体を通じて「本の魅力」を伝えられて「相手に本を体感」させることができるのか。
それが実現できた本屋だけが生き残れる。

いわば本屋も「本を物として売る」のではなくて「本を表現する」時代に来たのだ。
売れている本をアピールする時代はすでに終わった。
それはもうアマゾンやネットで充分すぎるほど行われている。
小さな書店がそこにかなうはずがない。
埋もれている味わい深い作品を、地域の人たちと共有するために、店の中の作りから、その演出方法、時には月一でも「書店便り」を作ってお店の中にフリーペーパーとして置き、イベントのお誘いなど、「人と人が関わり、リアルタイムで変化する書店」を作らなければいけないのだ。

その可能性を拡大してくれるのは、皮肉にも電子書籍を通じて発信することになるだろうが。

大本になる「本作り」も、自然と本を作るのではなく「表現してもらえる本作り」にシフトしていくだろう。
それはより強力な文脈を持った本作りをしていかなければならなくなる。
つまりは、より高度な技術が要求される。
一言で言えば「リアルさ」だ。
それは日常におけるリアルさであったり、心におけるリアルさであったり、仕事におけるリアルさであったり、エンターテイメントにおけるリアルさであったりする。
「より感じられる本」。
もう、時代は変わったのだ。
本はより「人のリアル」に踏み込んでいく力を持たなければ生き残れない。

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02/16

Wed

2011

そもそも自己責任論ってどこから言われるようになったのだろう。
昔からあったようにも思うし、少なくとも親の世代がそうだったので、私が生まれる前からあったのかもしれない。
それが時代が大きく変化してきて、対応しきれずに人同士の衝突を起こしていると考えるのが素直な見方なのではないだろうか。

私は正直、この「自己責任論」がよくわからない。
これを追求してしまうと、現在の日本社会の困窮はまさに我々の選択の末に起こっていること。
その上で「選択したものが責任を負うべき」を厳密に考えるのならば、この社会の責任は上の世代の責任なのに、「自分たちが大きく誤っていました」という声はあまり聞かない。

そして「自己責任論」を持ち出す最も顕著な特徴は「彼らが悪い(おしまい)」だ。
つまり悪いものがあったとしても現状に沿った形で打開策を考えるのではなくて、問題そのものを切り捨ててしまう。
酷い場合は知識で問題説明をし、そして終了する。
それ以上何かがあるわけではない。
私はこの姿勢こそ、今の酷い状態を引き起こしているのではないのかと勘ぐってしまう。
つまり問題があっても、それを共有できずに最後まで他人事として扱う。
自分は自分の生活として成り立たせたいので、「シェア(共有)する」という意識がまったく育たない。
だから自分の身に切実に降りかかった時にしか問題として捉えない。
なぜだろう。
いかに高尚なことを言おうと、もっともらしいことを言おうと、たとえば私が外国にいたとしたら「日本人って社会を共有せずに私物化しているのだね」としか見えない。

悪いものがある。
それは自己責任。
おしまい。
それではただの「個人主義」しか育たない。
そして改善もされず末期状態になり、文句を言う。
そして毎回言うだけで終わる。
「だから言っただろ。お前たちがやらないからだ」と。
永遠にこの手のやり取りを馬鹿みたく続けるのだろうか。
どこかで断ち切ろうと思わないのだろうか。
自分たちの次の世代に少しでもよい社会とよい精神を残そうとは思わないのだろうか。
こういう憤りを持っても、この日本では通用しない理屈なのかな。

一日一声、たった一人だけ、気軽に声をかけたり、ほめたりするだけでも充分なのに。
「分かち与えよう」という精神が育たないのはどうしてなのだろう。
こういう社会を選んだから?
だからといってこのままでずっといかなければならないということにはならない。
知識があっても知恵がないようでは困るし、知恵を生かす勇気がないようでは、人情がない。
人情が薄いと「薄情」という。
「薄情」な社会を作って、まともに社会が維持できるとでも思うのだろうか。
必ず人が人を利用しあう社会ができあがる。
殺伐として、人を容易に信用できない社会ができてしまう。
そういう社会にしたいのだろうか。
私には、今の大人たちが何を考えているのかよくわからない。
そして、本当に薄情な社会を選び取りたいのなら、もうこの手の問題を考えて、解決策を模索していくのはやめようと思う。
だって、必要ないものね。
必要とされていないものを無理に組み込もうとすることはない。

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02/16

Wed

2011

2月11日NHK「無縁社会」放送内容についての意図的偏向

http://getnews.jp/archives/99251
NHKスペシャル『無縁社会』に出たニコニコ生放送ユーザーが語る“演出への違和感”

もはや「ドキュメンタリー番組」として「ドキュメンタリー性」が維持できないのなら、もうこの番組をお止めになられてはいかがでしょうと感じた。
取材する側に、公正な取材能力がないのなら、それは単なるシナリオ通りの「ドキュメンタリー風ドラマ」である。
これでは番組作りのために人を利用したと思われてもしょうがない。
そしてそれはドキュメンタリーを作るうえで取材者が絶対やってはいけないこと。
信憑性がなくなるから。

本当に悩んでいる人たちに対して、失礼極まりない。
私は札幌での座談会に出席させていただいて、「東京で長年仕事をしてきて、地縁が薄れ北海道に帰ってきた時には友達もおらず孤立しており、仕事もこちらではあまりなく、困窮している」という事情を持った男性の顔を今でもはっきりと思い出す。
悲痛で鎮痛で、眉間にしわがより、終始悲しみにあふれた硬い表情をしてうつむいて、目を合わせるのも辛いようでいた。
私はあの人の顔を絶対忘れない。
私も人と目が合わせられないような辛さ、自らのネガティブスパイラルを体験しているから、すべてとは言わないまでも、あの精神状態がどれだけ深刻なものかよくわかるんだ。
果ては自殺するかもしれないのに。
なぜ、ああいう人の気持ちを真摯に受け止めて、きちんとした取材ができないのか。

心底失望すると同時に怒りさえ覚える。
何に惑わされたのか。視聴率だろうか。それとも放送期日の締め切り?
放送日があらかじめ決まっていて、取材内容の充実を放送日まではかることができないのなら、無理に放送することはやめるべき。
それぐらいの勇気と真剣さがあってもいいのではないのか。
ドキュメンタリーの鉄則は、取材者が主観をさしはさまず、偽りのない事実のみで構成されるということだ。
なぜ、こんな結果にならなければいけないのか。
何が原因なのか。

もはや公共の電波で放送してしまったのだから、きちんと番組内で謝罪するべきだと思いますよ。
「無縁」を取材する番組で、人そのものを軽んじるなんて信じられない。

P.S.
http://getnews.jp/archives/99255
ニコ生視聴者の83.6%「無縁社会は他人事でない」

 「無縁社会」取材のきっかけは何だったのか。板垣記者の場合は、ある件で取材していた失業中の50代男性と突然会えなくなったことだった。あちこち探してまわると、炊き出しのボランティアが「探してもムダだよ。もう『行旅死亡人』になっているよ」と言う。以後、板垣氏はネットで公開されている「官報」を調べるようになった。そこには身元がわからず引き取り手のない遺体、「行旅死亡人」の情報が記載されているのだ。「人間って最後は、官報の記事数行で終わってしまうものなの? と寂しさばかりが募った」と、板垣氏。この「無縁死」との関わりが、無縁社会を考える契機になったと語る

元々の取材の原点はここにあるのではないのですか?
今一度自らを見つめなおして、ここへと回帰していただきたいと思う。
「自分は生きていてもしょうがない」という思いを抱かせないために、すぐにでもできることは何なのかを考えるのが一番大事なのではないのか。


ちなみに、ここでの意図的な偏向とは「無縁状態だとは思っていない人間たちを、あたかも無縁状態だったと報道していること」です。
あとは取材者と対象者との情報開示の取り決めになるので、番組内容での意図的偏向とは少し違うことを追記。

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02/15

Tue

2011

こういうリミックスの技術はひとつの芸術だ。
数年前から聞いていたけれど、なぜか何度も聞いてしまう。
音楽著作権の問題はあるかもしれないけれど、こういう技術からできる音楽もひとつの音楽だと思うなぁ。
原作者の立場を考えると個人が持っている音楽哲学とがあって、複雑な心境になる人もいるかもしれないけれど。


James Brown meets IKUZO Turn Me Loose, I'm Dr. Feelgood【自重版】




【吉幾三】包丁・ハサミ・カッター・ナイフ・ベコ・クワ【ホルモン】




吉幾三 ゴースト・バスターズ ghost busters ikzo




【Perfume】セラミックガールはナニモノだ?!【ikzo】




Perfume×吉幾三 「無ェ」 フルVer




吉幾三×Capsule×DaftPunk×BeastieBoys StarrySky - IKZOLOGIC Remix

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02/14

Mon

2011

2月12日21時からのNHK「無縁社会討論」

書くのはよそうと思っていた。
思ったとおりの流れというか、何を話し合っているのだろう、という印象。
今回は若者を中心にした討論会。
でも、本当に「無縁」について話しているのだろうか。

主題が「働く」ということにおかれ、あたかも「雇用問題」に関係することがクリアになれば無縁は解消するかのような流れ。
現実問題として経済のことは個人ではどうしようもないし、政策のことだってもっと多くの人間が賛同しないと政治家は動かないだろう。

少し極論に聞こえるかもしれないけれど、無縁の問題は「お金の問題」とは分けて考えるべきなんじゃないかと思うんだ。
当然生活するにはお金が必要で、生活のゆとりを得るにはある程度の生活の保障が必要だと考えるのが普通。

しかし日本人は元々「お金がなくても成り立っていたコミュニティー空間」を大事にしていたのではないのかな。
経済社会に生きるからこその「お金の問題」であって、それは「無縁」を感じる「コミュニティー空間の問題」とは別なのではないのかなと考えている。
だからこそ、言いたくなる気持ちはわかるけれど、お金のことに重きを置くと、議論が当然堂々巡りになるのは目に見えている。
それは「個人ではどうしようもできない問題」が絡んできて、それがある限りはその問題について解決しない言葉のやり取りを永遠にやり取りすることになる。
この手の問題は「無縁」の問題とは違うのではないのかな。

※この点に関しては詳しい記事がありました。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51677145.html
池田信夫 blog : 「無縁社会」キャンペーンの恥ずかしさ


一番最初の番組では「地縁」「家族の縁」「血縁」など、「縁」に重きを置いて、「縁が切れてしまう現状がそこにある」という趣旨ではじめたのではなかったっけ?
今番組スタッフは何を見ているのだろう。

若者の問題でも仕事があれば、生活が保障されれば、家族の縁や地縁は回復するの?
寂しさや孤立感や孤独感が仕事があることで解消されるのかな?
じゃあ「縁」ということを考えていけば、仕事に携わることで「縁」はできるわけですよね。
じゃあどうして仕事やめた途端「縁」が薄くなっていって最後には切れてしまう人がいるの?

個人が会社というある一種のコミュニティーに関わっていて、それがなくなった時の代わりとなるコミュニティー空間が存在しないというのが問題なわけですよね。
無縁の問題は肥大化する。
それは容易にわかる。
しかしそれは雇用や現在困窮している生活の解消では到底まかないきれないし、これは本当に今見ている経済的な問題なのだろうか。
もう一度原点に返って「縁」の問題を見つめなおさないと、本当に取り留めのない状態が永遠に続くことになる。

話は変わるけれどネットについては完全にそこに重きを置くことは危険だと考えている。
当然これはひとつのツール、道具であって、道具に依存してしまうような社会ではいけないし、当然五感を使わないことによって起こってくる弊害がある。
道具は「補助」でなければいけない。
ネットの力については私も実感しているし、絶対会わない人間と知り合って会ったり、何かと支援してもらったり、仕事もしたりしている。
これからもそういうソーシャルコミュニティーを含めネットで繋がっていく人同士の可能性は広がっていくだろうけれど、人間は生物としての感覚を麻痺させては少々難が出てくると推測している。

人は最後には五感を通じて何かを感じたい欲求が出てくると思う。
だから肌身で自己肯定感、その先にある安心感を得られる空間がほしいのだと思う。
雇用の形態は事業者が意識を変えない限りは不可能だし、法律で保障されているはずの労働者としての当然の権利を行使すると、たとえば有給で一ヶ月旅行とかすると、会社にいづらくなるという大変不可思議な職場意識だって変えていかなきゃいけない。
しかしこういうひとつひとつの意識改革というのは経済的な事情が絡んでくるとどうにもできないのではないのかな。

それよりも、私たちが互いの価値観を大事にし合えて、同じ地域に住まう人々が集えて笑いあえる地域づくりって、どういう風にすればいいと思うのか。
ほっと一息つけるような空間作りはどうすればいい。
それでいて私たちは「都市的な特性」、つまりは「個人の価値観が最大限に尊重される状態」を維持しなければいけない。

世の中には足が早い人もいれば遅い人もいるように、精神にも差がある。
世には「こうすれば成功する」というプログラムがあって、それには難しいことが書いていない。
でもできない人がいる。
否定されることによる陰鬱さ、よくわかりますよ。
私だってネガティブなところから抜け出て、少しだけポジティブになるまで15年かかったからね。
この日本の閉塞感は否定されても、抜け道が小さいってことだと思うのですよ。
私はアメリカにいた時、ホームレスになっても抜け出せる、という不思議な感覚に包まれた。
路上で三味線でも弾けるようになれば一日食っていける。
そう感じた。
でも日本では落ちても才能があれば這い上がれるという気楽な感覚はもてない。
何かの瞬間に否定され、バッシングされ、陰口を叩かれるような、嫌な不安感や恐れがある。
それはアメリカでも同じだったのに、何が違うのか。
「前向きな逃げ道を模索していける」ということではないのかな。

大人も若者も、この都市化社会にあって「こうでなければならない」というような論調は互いの未来を狭めるだけ。


P.S.
ちなみにイケノブさんのブログの内容、ちょっと断言しすぎでガチガチだけど、話半分くらいで読むと、ちょうどよい中間地点で着地できそうな感じですよ。
日本には日本人にあったやり方があるのではないのかな。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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