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あさかぜさんは見た

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01/23

Sun

2011

小説におけるライブ感覚の必要性

http://www.publickey1.jp/blog/11/web_4.html
Webブラウザでの日本語縦書き表示、順調に進行中。年内には実装の見通し


これまでの電子書籍の動きというのは、ようやく紙と対等な条件をそろえるというところだった。
それで、敷居が低くなればなるほど、そこに参入してくる人たちがどんどん多くなってきて、混乱状態に陥る。

さて今年は初めから意気込みが何か違ってきていて、3日坊主だったのが衰えない。
というか、今年こそは今年こそはで過ぎ去ってきた時間にもう耐えられない。
今までのままじゃダメなら数倍に進化するしかないという意気込みなのです。

ということで、余計なことをしゃべりましたが、たぶんこれからの小説の世界は「小説家」が独占していた「リアリティ」というやつを、素人の現場で働いている人間たちが圧倒していくと思うのです。
いわゆるその職について長年やっている人しかわからない、というような内容を素人さんがバンバン書いていく。
その上占拠されるジャンルは詩、ファンタジー、私小説、取材に基づかない小説などなど、文才のちょっとある普通の人が誰でも書けるものが次々と量産され、今出版している小説家のほとんどが死に絶えることになるでしょう。
その上でますます「隙間産業」となる、この分野で生き残っていくにはどうすればよいのかというと、常に「誰かを巻き込んで参加させられる吸引力」を持った人間のみがこの世界で成功していく。
つまり、題名の「ライブ感覚」を生んだ人が、これから生き残れる素質を持っている人間なのですね。

それで、通常の人はだいたい作って感想もらっておしまい。
次に書いてまた同じことやっておしまい。
インプットとアウトプットの繰り返し。
しかしこれでは「芸」にならないし、「芸術」にも程遠い。
あらゆる「作品」と呼ばれるもの、特に優れていれば優れているほど「コンテキスト(文脈)」が多様に生成されていくものですが、この文脈をライブ感覚で作れるものが次の時代のキーワードになりますな。

これにはひとつの理由があります。
今現在の出版事業は音楽業界の歴史を追従しているとの見方があり、私も同じ失敗を繰り返していく可能性を多分に含んでいると考えています。
しかし「音楽」とちょっと違うのは、元々「音楽」は「形のないもの」であることを考えないと、見誤ると思うのです。
つまり、音楽はyoutubeも加え、無料で流れ出て体感する人が増えた。
その分元々形のなかった音楽がCDなどの目に見える物質を離れ、体感型へと戻っていった。
これは音楽CDなどの売り上げが格段に落ち、ダウンロード販売も成果が伸び悩んでいるのに対して、ライブの収益は格段に上がっている。
これは皮肉な形ではありますが、電子化によって音楽が元の形に戻ったという見方をしてもよいのではないかと思うのです。
そして、本もまた、私がかかわるのは小説などの文芸の世界ですが、この文芸の世界も、電子化によって元の状態に戻っていく感じがしています。

そこで考えなければならないのは、本ってなんだろう、いやいや、そもそも言葉って何かな?
そんな超基本を通り越して、当たり前すぎて誰も考えなかったことを、もう一度再考する必要性が出てくる。
言語を使って行われる、我々の思考や、直感的な行動。
元々、言葉とは「伝えるための道具」です。
自分ひとりで行動して誰とも出会わず意思疎通を図る必要性もないのならば「言葉」は必要なかった。
しかし伝える必要性があった。
高度な思考や社会を組み立てていくために言語が必要だった。
我々が言葉を他人に発する時は「自分の考えていることを伝えるため」です。
しかし文字だけで考えるとどうしても見えてこない。
よく考えてほしいのは、私たちは目の前の人の情報や自分が感じていることをすべて言語化しているでしょうか。
してません。
言葉が持っている意味そのものの裏側にはいろいろな表情や仕草や雰囲気、気温や湿度や天気や場所もすべて含まれて、ようやくひとつの言葉になっている。
それが「言葉本来の姿」なのではないかと思うのです。
ならば、言葉も電子化が進むことによって、この「本来の姿」に音楽と同様に戻っていく。

さて、困りました。
私たち本を書く人、特に小説なんて書いちゃうのだから、人とのコミュニケーションがうまくできない場合も多々あります。
だって、人とそつなく付き合えて世渡りができるのなら、わざわざ「小説・文芸」などという表現手段に頼らなくてもいいのです。
それくらいよわっちいし、内弁慶なのが小説家だったりするわけですね。
しかし、言語は限定的かつ感覚的だからこそ、逆にそれをパズルのように組み合わせて伝えることが楽しかったりする。
その限定的な感覚で楽しんでいるのが小説だったりしますが、作品に大事なのは「文脈」です。
つまり読者の「解釈力」を引き出してあげるのが「作品」として優れていると私は考えるのですね。
じゃあそういう多様な「ああ!」っていう感覚を与えていくにはどうすればよいのかっていうと、やっぱり本を通じての交流しかないと考えるのです。
電子書籍参入の人の多さにより、より「無感覚な小説」が増殖してきます。
本を通じての交流は、この無感覚な小説への唯一の対抗手段となるべきものだと思います。
ウェブでの見せ方もあるでしょう。
直接本屋などでしゃべる機会も設けなければならないだろうし、特にこれからはあらゆるコンテンツがその境界線をなくし、技術とともに融合と分離を繰り返しながら新しい何かを創造していきます。
クリエイティブな世界は、コンテンツの融合により加速度を増し、新しい時代に通じないものを物凄い早いスピードで食い散らかしながら増殖していくでしょう。
だからこそ、その世界に精通している人が大事だと思えるものを保存しておかないと、技術によりズタズタに分断されるのです。
本屋もきちんと「本って何だろう」「本のよさって?」ということを考えて、本を作る人間を巻き込んで本を買ってくれる人たちにドキドキや「ああ!」を伝えなければいけない時代になってきている。
いや、必然的にライブ的な感覚を取り入れざるを得ないという方向性になるでしょう。
だから我々も乗り遅れてはいけない。
今からしっかりと「本におけるライブ感覚って何?」ってことを考えて、読者が「ありがとう。よかった」と言ってくれるような本の面白みを想像していくべき時代になったのです。
ということで、言ってる本人やらなかったらしょうがないので、今年はちょっとずつやっていこうと思いますよ。
これからの作家は作家を中心としたひとつのチーム的な発想をしないと、他人を巻き込んでいくことなど到底不可能です。

ここからは蛇足ですが、コンテキストを含んだ連想型検索エンジン、どこまで進んでいるのか未確認ですが、感想など、読者が生成するコンテキストを集めて検索結果へと単語で表示したり、単語そのものが連動していく単語を類推して表示した結果に生まれる、単語(例:恋愛)+単語(例:幸福→幸福とは←悲しみ)での検索結果(例:=悲恋の小説 /読者感想まで連動させたらさらに繋がりが広がりリストアップできる)などが出てくると電子世界ならではの広がりを見せてくると思うと同時に、逆にダメなものも、このシステム応用できれば排除できますよ。
読者のコンテキストを検索エンジンにどう表示させることができるかがポイントですね。


追記:そう考えるとアマゾンって検索システムのアイディアほしがるはず。どこと組むんだろ。

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01/22

Sat

2011

忘れていたこと 考えていたことの吐露

多くの人間と衝突を避け、その人たちに気に入られるにはどうすればよいのかと考えるあまり、小さなものに成り下がりつつあった。
私はよくそのことを円にたとえて考える。
個人は見ている範囲がある。
その見ている範囲や感性や常識的感覚を円でくくるとしたら、個々人の集合たる集団がくくっている円の重なっている部分、たとえば百人いてその百人の円がかぶさっている部分は相当狭い。
気に入られるとは、その円の重なった一点を突く行為に等しいが、私の感性そのものまでそこに合わせる必要性などまったくなかった。

様々な中傷や罵倒や否定があるだろう。
私はどうにもその手の人間に出くわすことが多い。
高校生あたりの日記を見つけたが、相当棘があってナイフに触れるみたいで落ち着かない。
直感的に気に触るし、腹が立つ人種。何も知らないくせに知ったような口ぶりで生意気。
自虐的でありながらもその逆の攻撃的なものも皮肉交じりに加えているから手に負えない子供だ。
自分の子供が自分だったら相当困っただろうな。
今は少し中和したつもりでいるが、本当にいやな子供だった。

先日「菊と刀」という本を読もうとして、失敗した。
というのは、私には深いトラウマがあって、典型的な日本人の悪い特性に出会うと、頭の中で様々な類似体験がフラッシュバック、脳内再生されて憎しみが湧き出る。
それは「人を殺してもいい」と衝動的に思うほどの強い劣等感と憎しみだ。
この呪いにも似た己の特性は長い時間を掛けて取り払っていかないといけないが、今は無理だ。
もう少し、いや、だいぶ成長して、今の自分を「幼かった」と思えるほどの大きな器を持たなければならない。
逆にこの本を読んで現代人と重ね合わせられるということは、日本人は精神的にはまったく成長していない側面があったと指摘できるかもしれないが。
ほらね、こういうところが、もう根付いているいやらしいアイデンティティー。

しかし、これもひとつの私の星が背負う宿命だったのかもしれない。
生まれるべくして生まれ、その命運をたどっている。
世界にはそういう人種がいる。
今なら傲慢に聞こえる。
今なら誰もが私を否定する。
当たり前だし、何よりも正しい感覚だろうが、自分の人生を振り返って、すべて必要だったように思えてならない。
あらゆる傷も、劣等感も、今は拭い去れないトラウマもフラッシュバックも、全部。

私は北海道民としてやっておかなければならないと考えていることがある。
ニッカウィスキー竹鶴さんのことと、北炭。
この二つは運命ならば必ずなせる。
もしなせなかったら、私は歴史上の役者ではなかったということだ。

次に作家として手が届くのならば、神戸新聞の力を借りて、阪神大震災、そしてそれを元にこれから起こる関東大震災のハザードシュミレーション、竹鶴さんのことが書けたならば、プリンセス・ミチコ。

ご無礼なことを承知で書かせていただくが、主人公になりえる人間は彼女しかありえないと小説家として思う。
現在の陛下は美智子様の存在抜きにはありえないだろうと考えるからだ。
これは小説家としての視点として、主人公となるべき人間は、何者が何が
突き動かしているのか、ということなのです。
陛下を表現するには誰を主人公にすれば、そして一般庶民に一番直接的に響く表現方法は何かを見据えるとすれば、美智子様以外にはありえない。
そして美智子様を私などの人間が理解するには、陛下、皇后を上回る教養が必要になる。
あらゆる人たちの協力が必要になるだろう。

私は妄想家です。
自分の打ちたてた妄想を純粋に追従する人間です。
私の深層心理には埋め尽くされた罵倒がたくさん沈んでいて、それをどうしようもなく処理できないおろかな人間だけれども、命ひとつかけて、軽い命かもしれないが、この命ひとつかけて、自分の感情や感性に純粋にしたがっている。

きっと私は最低の愚か者か、その逆かの二つに一つしかない。
これらのことを考えていても、私の実力が及ばないばかりに砕け散るかもしれない。
しかし、こういうのが本当の人生ってやつでしょう。
命ひとつかけて、だめだったら、何も叶わないでしょう。
保険掛けて、こっちがだめだったら、元に戻るというのは、作家として、命かけて、人生かけて、滅んでいった人たちや、成功した人たちを書くことなんて到底無理でしょう。
書くことは片手間でできても、「表現」は片手間ではできない。
自分の言葉ですが、こればかりは深く確信していることです。

不幸なのは親だ。
普通の一般社会へ馴染んでいき、生活の不安を一切抱えない、人生を歩んでいってほしいときっと望んでいたに違いない。
あらゆることが重なって、ここにいるけれど、親の気持ちだけを純粋に考えるならば、心底親不幸者だと思う。
そのことだけは一言だけ、一言だけ謝りたい。
その後は、もう振り向かない。
あらゆるものを犠牲にしてでも突き進む。

これが表現者の覚悟であり、懺悔でもある。

私はもう、引かない。

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01/21

Fri

2011



1991年の映画か、としみじみ。
監督はスティーブン・スピルバーグ。
たまにこの映画を見たくなるのはフック船長役のダスティン・ホフマンが大好きで躁鬱がかった大人子供のはじけようがたまらなくいいのだ。
なんだか年をとるごとに感情移入ができるのは自分が年をとってきたからなのだろうか。
自分にげっそりである。
スミー役のボブ・ホスキンス(マリオ)と漫才を繰り返す、いわばおバカコンビ。憎めない。
大人になってくると、結構いろいろな目にあうので人への警戒心が強くなり、構えてしまうところがある。
ロビン・ウィリアムスが扮したピーター・バニング(パン)のようなことになるし、夢というものを信じなくなる。

自分がこの映画へ素直に感情移入できない時は心が乾いている時やギスギスしている時だ。
とてもじゃないが苦痛で見れない。
でもそうじゃない時は「夢を持ち続ける大事さ」というのを痛感して目が潤む。
ここまではっきりした心の違いに自分でも妙な感じを抱く。
夢を育てているのか、夢を食い物にしているのか。
でもこの世界のピーターパンって父親として、一人の人間として夢を持ち続けるために前向きな努力をしている。
夢だけがあってそれを持ち続け、大人に対しての反抗心などを持つなど、妙な意味で定義されてしまった「ピーターパン症候群」のピーターパンとは違うんだよな、と感じたのだ。

大人も子供も夢がないと生きられない。
その夢の持ち方というのをどうすべきなのかは、大人の責任として考えないといけないのかなとも考えはじめている。
正直、「お、れ、た、ちゃ、海賊だ!」みたいな典型的な海賊役ができたら楽しそうと思ってしまった。
ああいう世界は裏切りに満ちているけれどもね。

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01/06

Thu

2011

仲村颯悟(りゅうご)監督



朝のテレビ番組で偶然見たけれど現在14歳だそうだ。
今は年齢で驚きを売りにしているけれど、この方は本当にカメラワークの天才かも。
普通の明るい変哲のない畑を「ホラーっぽく撮ってください」と言われて撮った映像に鳥肌が立った。
カメラワークだけでホラーにした才能は凄いの一言に尽きる。
カメラだけでここまで訴えてくる感性は、これから確実に大物になると思わせるに充分だった。

日本の映画界に革命を起こし、世界に名を轟かせるのも時間の問題。
青年になるまでに6年もあるのだから、今よりもいっそう腕を上げてくるに違いない。
日本はこういう才能を無駄にしちゃいけないし、育てないといけないのですよね。
カンヌかベネチアかベルリンかわかりませんが、いずれ海外でのグランプリを取って帰ってくるのを心待ちにしています。

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01/06

Thu

2011



インテル入ってる?
面白いフィルム。
アイディアの宝庫。
今の自分のパソコンならこの映像実際にやったら30秒も持たないと思う。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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