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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

2024

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07/21

Wed

2010

絶望倶楽部 南雲玲の復讐

あまりに内容がダークなので「つづきはこちら」のところにあります。

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07/16

Fri

2010



千葉真一というアクション俳優がいまして、最近で一番有名なのは「キル・ビル」服部半蔵役が有名でしょうか。
現在の20代にはもうなじみのない俳優さんになってしまいました。
千葉真一が出ているこのドラマの歌詞なんて「寺山修司かよ!」って突っ込みたくなるほど影響されている。
当時の時代には時代を象徴する強烈な存在があった。
ずっと「インパクト」ということを考えていて、千葉真一は印象が残っていた。
寺山修司もそう。

私は千葉真一をNHK2007年大河ドラマの「風林火山」板垣信方役で強烈に知ったのですが元々はアクション俳優。
アメリカではサニー千葉として活躍していた筋金入りの役者なのですね。



千葉真一という役者、見ての通り「動き」に「凄み」があります。
何かの格闘ゲームのように敵がゾロゾロ出てくるっていう。
まじめに考えたら突っ込みどころは満載ですが、いいんです。
今の若手の役者さんでこれだけの凄みが出る人ってなかなかいないんじゃないだろうか。

あ、先ほどの寺山修司でタモリのモノマネを思い出しました。



この話の中でとても面白いことを言っている。
「戯画化」「戯画=カリカチュア」のことなのですが、

「タモリはパロディストとはちょっと違うのではないか。タモリっていうのは戯画化されたものを描く天才なんじゃないかと思う。彼はそれと同時にコミュニケーションというものを否定している。そのコミュニケーションの先に何が来るかっていうのを予期してない甘さはあるけれども、コミュニケーションを打破した後に何が来るかっていうのに敬意を表している」

一つのアンチテーゼとしてこの問いかけは凄く面白い。
コミュニケーションを打破するコミュニケーション。

私たちにおける「芸」というものは「劇画化」「写実性」が求められる。
それをどのような表現法においてなしえるかの違いでしかない。
このタモリの寺山修司のモノマネは思想、口調、雰囲気を見事に写実している。
千葉真一が風林火山の大河ドラマで討ち死にするところなんて必死に抵抗しながら辞世の句を読み上げるけれど、敵は普通は待ってくれない。
敵将が近くにいたら介錯してくれるかもしれないけど、雑兵は待たない。でもちまちまと延ばす。
しかしその一つ一つの動きにおいて、噛み締めるように訴えかけてくるものがある。

で、前置きが長くなりましたが、どうしてこんなことを色々考え出したかというと「インパクト」ということを言われずっと悩んでいたわけです。
今「告白」という映画が流行ってますね。
小説における「告白」は三分の一くらい読んでやめてしまったのです。
どうしてかっていうと、他の人の感想は暗いとか後味が悪いとかあるのですが、そういうことではなく描写における人間心理っていうものに「?」が浮かんだわけです。
つまり「憎しみを告白し、自らの犯罪を訴える時、いつまでも機械的に平坦でいられるか」ということなのです。
その点において強烈な作者の恣意を感じたわけです。
登場人物が人形のように完璧に動くというか、作者の手のひらで動いているのがはっきりと見えてくる。
それって「人間描写」じゃないよ、って思っていたところに「告白」を知った友人から「インパクトがあるよね。最初の告白の場面で復讐するのにあれを使う。それって物凄い復讐方法でしょ。陰険だし。本当に憎んでいる。相手の一生に関わることでしょ。とにかく復讐を達成しようと思っているのがそれでわかる」と言われちょっと否定したものが納得できる形で肯定され衝撃を受けたわけです。
つまり「作品におけるキーワードがあり、そのキーワードがインパクトとなり、インパクトのあるキーワードがあることによって、話題性が出る」ということです。
その明確なキーワードが伝わっている。
その点においては確かに言われてみれば「告白」は成功している。

ずっと悩んでいたのですが自分は作品における意図や意思をきちんと「キーワード」として「インパクト」として強烈に与える次元までは到達していない。
千葉真一の演技におけるインパクトには到底及ばないし、タモリの寺山修司における戯画化された写実性には到底及ばない。

昭和の音楽80年前後あたりを聞くと古いし映像を見ると古臭さを感じるけれど、妙に安心するものがある。
人情味ってものが画面からにじみ出ているのだなとしみじみ感じた。
現代における話題性ってものは、とても刺激的なもので構成されている。
それが「売るための手段」とでも言わんとばかりに。

自分は人間をちゃんと描いて小説という立場を守りたいなとは考えているけれど、こういう売れ方や支持の前にひどく気持ちが揺らぐ瞬間がある。
迷って、進めなくて、今の自分の甘さにも打ちのめされるし、何よりもすべて放棄したくなるほど苛立つ。
これらの紹介したものは深い観察力によって成り立っている。
今の作品は観察をしなくても情報をより集めて話を作り上げる。
そんなものが支持されていることに対してジレンマが生まれるわけです。
それと同時に自分自身の観察眼のなさにも打ちのめされるわけです。
まだ全然足りない。足りなさ過ぎる。

「人間て言うのはさ、冗談か本気かわからないギリギリのところで生きているんじゃないかしら?」
松田優作、探偵物語より。

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06/26

Sat

2010

JR東海 X'mas Express 歴代CM 1988年~1992年

昨日、誕生日を迎えた私です。
占いでは今日の満月から凄いことになりそうです。
今日の記事はそのことではなくて、懐かしいCMを見つけました。
CMもよく世相を分析しているし、その時代、タイミング、よく考えられています。
ひとつの芸術作品といってもいいのではないかと。

今回のCM、私もよく見ました。
印象に残ってます。




このコメント欄を読んでいてはっとさせられました。
とても懐かしがっている方たちは恐らく今は40代から50代の方々でしょう。
確かにこの頃は携帯電話も電子メールもなかった。
だから電話で連絡して駅で待つ。
そういうドキドキ感があった。
確かにありました。

電車と待ち合わせって、やっぱりドラマがおきる。
卒業とか、別れとか、空港や駅って離れたり生まれたりする空間ですよね。

コメント欄のコメント持ってきちゃいますけど、もしNGだったら言ってください。

明らかに、日本が世界の頂点に君臨していた時代でしたね。
あのころが、異常だったという人も多いけど、今のほうが異常だなって感じるのは僕だけかなぁ・・・・・
何もかも、輝いていた時代だったし、若い人も中高年もみんな夢があって、それが実現できるとがんばっていたなぁ・・・・・
メールも携帯もなく、時間に心ときめいていたなぁ。
kimukimu1900さん

京都駅から見送ってくれた彼女の姿は今でも目に焼きついています。
遠距離恋愛は実らなかったけれど・・・
彼女が今しあわせだったらいいな。
nasu233150さん

1970年生まれ、そう、当時青春時代のシンデレラエキスプレス。
私も今年40歳です。いまみんなどうしてるんだろうって本当になつかしいです。
私の妻もシンデレラエキスプレスシンデレラ。
皆様はどうですか。
幸せですか?幸せですよ。これからも世の中のシンデレラが
みんなしあわせでありますように。。。
neyagawa55さん

このころ俺は21歳でした。携帯もメールもできない時代。
連絡手段は手紙と家の電話しかない時代、パソコンも携帯も無い時代。
でもみんな夢と希望に満ち溢れていたように思う。
恋人と約束して待ち合わせるのって結構ドキドキだった。
クリスマスには精いっぱいおしゃれして背伸びして、レストラン予約した。
懐かしくて涙が出そう。
noburindayoさん

1988年自分も18歳でした。就職をしてたので
この先自分はどうなるのかどうなりたいのかと不安だらけ
でしたがそれと同時に明るい未来を信じて毎日を過ごしてました
楽しくて楽しくて仕方かなった・・・
とにかく夢があったなぁ・・・希望、持ってましたねぇ。
senbei2007さん

25年前、突然、東京に転勤になり、彼女と全くこの状態になりました。
ただ、日曜日の夜の別れが、辛くて。涙の3年間でしたが、
結婚する事が出来、当時の事、思い出し、懐かしく拝見させて、頂きました。
nozomi529さん

19時代東京発→22時代新大阪着で大まかな時間だけを約束に
いつも一番早い東京発の自由席に飛び乗り帰郷。

台風で大幅遅れ、、、
日付変更線を越えいつもの待ち合わせ場所に彼女は待ってっていた。
俺 「帰ったかと思ってた・・・」
彼女 「今日は友達の家に泊まる言うて家出てるから帰られへんし、、、あんたは絶対帰ってくるから。」
ptpserviceさん

携帯電話のように、今の便利さがない
時代だったけど、連絡が取れないもど
かしさや待ち合せの時に感じたドキドキ
感などを思い出しました。
まだ20代でバブルだった頃ですが、仕事
が終わって彼女とのデートの待ち合せに
向かう自分の気持ちが蘇ります。
kouhei1511さん

今は便利になってしまった分、その瞬間瞬間での情報が優先されてしまうから、「人の思い」を感じてるヒマがなくなって来ちゃいましたよね。。 今となっては、あの頃やきもきした気持ちがとても愛おしいと感じます。成功か失敗かはともかく・・・
20022002943831さん

この頃は、確かに夢も希望もあった。
今よりもみんな男も女も人情味があり、人間味があった。
携帯もメールもなかったが不便さはなかった。
恋愛も結果はどうなろうと、昔のほうがときめきがあり楽しかったなぁ。
Dogs824さん

2階建ての100系新幹線、パタパタ式の発車案内板、自動化されていない改札、緑の公衆電話、ドアの張り紙、いつ来るかと思いながらの待ち合わせ・・・メールも携帯もなかった時代のときめきだなぁ(涙)
keimat1970さん

もう絶対作れないCMだと思います。
今では携帯片手に四六時中、愛の確認
どこにいるのかもすぐわかっちゃうし、
あの頃は不便だっだけど、CMのように心にすごくときめきがあったよ。
vision1013さん

僕は学生だった。
東京駅で名古屋からの彼女を待っていた。
あの頃の日本は元気だったよ。
夢がある時代だったな。
1971motoさん

ケイタイもE-mailも無い時代・・・初めて彼女に電話した時、彼女の父親が出て「夜分恐れ入ります!!」と受話器持ちながら頭を下げてのが忘れられません・・・。メールを拒否っての別れって・・信じられない世代です・・・。
To0824Kさん

この時代ってネットもモバイルも確立してなか
った時代で仕事も忙しかったからクリスマスに確実に逢えること自体がサプライズに近かったんだよなぁ...今の時代は恋人ってゆう存在感が薄まっているのかもねぇ...
existir95さん

あれから20年余
時代の進歩と共に携帯とインターネットを
得て私たちの生活は大変便利で自由を手に入れた。

でも失ったものは、大きいとこのCMを見て思います。
この時代までは、人と人との気持ちがつながっていた時代かなぁ・・・寂しいです
exblue05さん

現在はケータイがあるから待ち合わせすれば、相手の状況がわかるので便利になったけど、この頃はそんな便利なものがなかった。
彼は来る、来ない、来る、来ないと花占いのように、頭の中で繰り返してた。ドキドキしてた。(5時間位待った事もある)便利なのはいいけど、あのドキドキを忘れたくないな。
okemoreさん

100系新幹線でその当時、東京~小倉間を毎月往復してました。
いつも帰りにデッキで、ギュッと彼女を抱きしめてました。
2階グリーンから手を振ると、泣きながら振り返してました。
100系も彼女も思い出になりました。

おじさんの青春グラフティーです♪
csmeister1964さん

最近じゃ「今、品川を過ぎたところ」とか「×番ホームの階段の所に居るから」なんてメールでやっちゃうんでしょうから、こんなシチュエーションが作りにくいね。
ケータイって便利な機械だけど、こういうドキドキ感や不安感、そして会えた時の喜びは薄れてゆくような気がして、少し寂しいような。オジサンの繰り言です。
myzkdreamさん

この頃、東京営業所の出張員で、
東京都大阪を大阪と行ったり来たり
していたから、当時を思い出します
嫌な事があって、会社は辞めちゃった
けれど・・・どっち道、サラリーマンは
勤まらなかっただろうなぁ・・・
hamaguchikokiさん

私が九州の大学から東京の会社に就職したのが89年。
当時、社員寮から5000円のテレホンカードを使って電話しまっくていたが、遠距離恋愛には少し遠すぎたのかすぐに別れてしまった。その頃のことを思い出します。
またこんな心に訴えるようなCMを出してくれないかな~。
hiderin36さん

「バブル」の時代、大学の掲示板には求人広告がビッシリ。
クリスマス・イヴもバイトに明け暮れてました。
それでも寂しいなんて思わなかった。
そんな時代でした。
yusityunさん

このCMシリーズ すごく好きでした☆
当時まだ中学生だったので 大人になって もし遠恋でも
することになったら こんな風なのかな と・・

この頃から10年後 
実際 そういう恋愛もありましたが
日本と海外だったので 
私は 新幹線ではなく飛行機でした(笑)

空港に着くたび ドキドキしたのを思い出します
ten2cielさん

大学4年間モロかぶりです。ワクワクしたりせつなかったりした、あの頃の空気感や甘酸っぱい気持ちを思い出します。何度見ても涙が出るのは、純粋だった自分に帰れるからでしょうか。
morpheus1028さん

この頃はまだ中学生で、このCMが流れる季節がくると胸が

きゅん

っとなり、「大人のクリスマス」に憧れて止まなかったのを思い出します。
毎年楽しみにしていたCMでした。

色々なCMはありますが、今でも一番好きなCMだなぁ。。と懐かしくそして観る度に思います。

今の時代の方にも不便だったけど違う感動があった時代を教えてあげたいです。
adatimannさん

携帯電話がない時代ですから、デートを事前に約束して、その日時が来た時、女の子が待ち合わせ場所に本当に来てくれのかどうかドキドキしました。すっぽかしくらうのではと不安でした。待ち合わせ時間に遅れると女の子に何か不慮の事故でもあったのではと心配でした。この ため、彼女が笑顔で実際に来たときは、この映像のように喜びと感動は格別でした。
vun97502さん

学生時代に彼女と改札でよく待ち合わせをしていました。この映像を見るとあのドキドキ感を思い出せます。
人混みで彼女を一生懸命に探して頃が懐かしいです。
kamekame0619さん

36年前、東京~岡山の遠距離恋愛を二年経験しました。毎日会え­た人が遠く離れて・・・・折れそうな気持ちをつないでくれたのが­新幹線でした。愛しい人に会えることが、その声を聞くことができ­るのが、なんてうれしかったことか・・・・そんな彼女と結婚して­今月34回目の記念日を迎えることができました。今でも奥さんが­岡山に帰るときは新幹線を使います。二人の気持ちをつないでくれ­ていた新幹線を裏切ることはできません。
kazuo kurabeさん

このCMシリーズで大好きでした。特に1作目、深津絵里さんの時­は、高校生でした。まだ、携帯電話もなく、連絡がとれなければす­れ違い。
いい思い出です。高校の時、付き合っていた彼女と駅で真似をした­ものです。
久しぶりにみれて、すごくうれしかったです。アップありがとうご­ざいました。
ちなみに、その時の彼女は今の、妻です。
二人で見ることをたのしんでます。
本当にありがとうございました。
ruji sakiyamaさん

以下の5つはCM内のコメント。

「帰ってくるあなたが、最高のプレゼント」

「ジングルベルを鳴らすのは、帰ってくるあなたです」

「どうしてもあなたに会いたい、夜があります」

「あなたが会いたい人も、きっと、あなたに会いたい」

「会えなかった時間を、今夜取り戻したいのです」



今回のコメント集は「現実での体験」を中心にまとめました。
皆様それぞれの若かりし頃を思い出されているようです。

やっぱり目に付くのが「夢があった」「みんな希望を持っていた」というコメント。
私も携帯やメールがない頃の恋愛を体験している世代なので、このドキドキ感はよくわかります。
電話ボックスではテレホンカードを多様したりして。
なくなったら100円玉や10円玉を次々と入れたりして、切れてしまわないか気にかけながらしゃべってました。

色々頭の中で想像しながら声を聞いていたり思いを馳せたり「待つ」という時間の中にこそ「ドラマ」がありました。
今なら「待ち時間」がない。
その「待ち時間」が長ければ逆に嫌われたのではないかという誤解すら与えてしまう。
自分のことも考えたし、相手のことも考えたし、皆が同じリズムで暮らしているので「置いていかれる」という不安もなかった。
それよりも相手に近づこうと一生懸命あれこれと純粋に悩んでいた。

このコメントの数々を読んで「夢」とか「希望」ってなんだろうなと深々と考えてしまいます。
見えない未来はきっとがんばれば輝いてくるのだという思いを育めた。
それは経済的に豊かだったからなのかな?とも考えますがどうも違うようです。
もっと認め合っていたような気がします。
気持ちに余裕があって、余裕があるからこそ相手を受け入れる心が持てた。
だからその隙間に夢や希望が入り込んで育っていった時代なのだと思います。
時間は戻せませんが、時代は常に人が作っていくもの。
本当に豊かな時代は、人々の気持ちが豊かなものです。

私はたかだか名も知れ渡っていない物書きですが、そういう豊かな時代の到来に尽力できたらと思って、誕生日を迎えての新たな決意とさせてもらいます。


P.S.
お手紙もらったのでご紹介。

シンデレラエクスプレスの記事を読みました。

携帯電話もEメールもない時代、私は2度も遠距離恋愛してました。

高校生時代から付き合ってた彼氏が、地元の大学に2浪して入れず遠隔地の大学にいってしまい…。
彼は下宿住まいなので、電話は呼び出し。
コミュニケーションの手段はもっぱら手紙。
結局、心がすれ違ってしまい別れました…いや、一方的にふられました。

次は社内恋愛で、相手が東京に転勤してしまい…。元々東京の人でした。
毎週土曜日の夜11時になると、電話が来ました。
会社の夏休みやGWなどに、家族には女友達と行くと嘘をついてふたりで旅行に出かけました。
東京在住の友達の結婚式だの、女友達とディズニーランドに行くだの、そんな機会を利用して彼にも会ったりして。
結局、婚約したけど…色んな事情で私が心変わりして婚約解消しました。

幸せいっぱいなCM映像を見て、自分の失敗と反省の歴史を思い出しちゃった(笑)


私たちは電話をかける時も戦っていた。
相手が親と同居の場合、「親が出るかもしれない」というリスクと戦っていた。
特に親と子供がとても声が似通っていた場合、勘違いして勢いあまってしゃべりだしてしまうこともありました。
今は携帯電話にかければすぐ。
たまに違う人出たら思いっきりびっくりするということはあるけれど。

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06/21

Mon

2010

見たいけど見れてない映画

















全然見てないな。
最近。
アウトレイジも見たいな。

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06/14

Mon

2010

※プリミティブ (primitive)とは、「原始的」「素朴な」「幼稚な」という意味。

cobaというアコーディオン奏者がいる。
この人の名前は知らなくても、CMなどで音楽が多用されているのでテレビを見ている人なら一度はどこかで聞いていることと思う。
アコーディオンそのものは1822年ベルリンのフリードリッヒ・ブッシュマンに開発されたというのだから、まだ楽器としては200年もたっていないということになる。
cobaはアコーディオンの魅力を「胸に直接響く」「恋人を抱くように」と表現している。
当時マイナーだったアコーディオンの知名度を上げるために、二者択一の周囲の押し付けの人生にも反発しイタリアに渡ったがすべてが衝撃的だったという。
日本でもイタリア人のイメージと言えば自由奔放な感じがするが、イタリアの文化自体が良くも悪くも「プリミティブ」であるとcobaは表現している。
つまり欲望に忠実に、人生は一度きりだから楽しもう、やりたいことをやろう。
それだけだといさかいが起きるはずなのに、どうしてなのだろうと観察してみると他者をリスペクト(尊敬)しているという。
だからうまく社会が循環している。
ただ、欲望に従っている分、それなりの悪い意味でのハプニングもイタリアではたくさん起きるから、全員を善人だと思っていたら痛い目にあうわけだけど。

cobaの音楽を聴いていると、アコーディオンという楽器だからというわけでもなく、非常に自然で人間的な哀愁が感じられることがある。
それは彼がイタリアで見てきたものと、日本人としての感覚が混ざり合い、うまく人間の喜怒哀楽を表現した音楽性に現れているのだと思っている。
イタリアにはまだいったことがないが、よく経済的にも比較されることがある。
例えばGDPははるかに日本よりも悪いのに自殺率が低いのはなぜか、など。
こういう視点にも日本人の悪さが露骨に出ているから嫌悪感を覚えるが、芸術関係に携わると、今の現代日本人の生活観の中に芸術を楽しもうという開かれた気持ちが非常に小さいということがわかる。
その理由は諸説紛々だし話せば長くなるので割愛するが、一言でいうならば芸術を楽しむにも精神的な余裕が必要であり、その精神的な余裕を現代日本人は持ち合わせづらい、ということだ。
これは実際に携わると肌身でわかる。やる側としては「いいわけ」に過ぎないので、そんな人にも届くようなものを作っていくのがプロ根性なわけだけれど。
ただ、表現者として言わせていただくならば人間として精神的に自立するということは他者を認めるというところにあるのではないだろうか。
その付き合い方はまた個々人別々としても。

こうしたインターネット空間でも様々な人たちと交流し、互いに持っていたプランが現実化することはよくある話になってきて、非常に便利だが不愉快に思うことも多々ある。
特にこのような場所においては言葉の価値はほとんど低く、言葉そのものに価値を持たせるには背景に多大な努力を必要とするが、人はおかしなもので「よくお前が言える」というようなことを言っても、その人間にそれらしい環境があれば周囲は信じてしまうという不思議な作用がある。
しかしそういうものはそれこそ「プリミティブ」なものであって、その人間が創りだした一種の事実ではあるのだから、責めたり恨んだりする前によく観察してみると面白いことが多々見つかる。
ひとつは他人を通して自分自身の醜さをはっきりと垣間見ているということと、その「プリミティブ」さ、愚かさこそ人間活動の本質なのではないかということだ。
自分すらも結局は「プリミティブ」なものの上に「大人を装って」いるにすぎないのだから、互いの「プリミティブ」さが完全に合致するということはまずない。
だからこそ喜怒哀楽があるのだとも感じる。
現代日本ではサービスが細分化されてきていて、自分と直接的にマッチングする商品と出会える。
だから逆に自分の趣味や好みのフィールドを極限化できるというメリットもあるが、それゆえに逆にデメリットにもなる。
安定し、反復した日常を送る中で、いつの間にか自らが他者を拒絶するような環境を作り出している。

かつて白洲次郎という人間が「日本人にはプリンシプルがない」と言った。
プリンシプルとは「原理、原則、根本、主義、信条」などと訳されるが日本語訳が難しいと言われる。
私なりに解釈をすれば「自己を確立するための骨格がない」というところだろうか。
確かに「プリミティブ」なものであふれ、それを大事にできる個々人の環境は非常に整えられてきているが、はたしてそれを認め合うだけの「自己」が我々にはしっかり備わっているのだろうかと、私自身も日々自問自答する日々だ。
自分の「プリミティブ」さが肥大化する環境は他者が懸命に作り上げている現代社会のサービスにおいて、「己」のみを追求するというのは滑稽ではないか。
そこを現代日本人は大きく勘違いをしていると考えるのだ。

しかしこのことを言葉で言えば角が立つ。
なぜ過不足なく暮らしているのに、余計に疲れるような精神作業をしなくてはいけないのか、と反発を買う。
そんな「プリミティブ」な感情にこそ、「プリミティブな楽器」とアコーディオンを言った奏者cobaの音楽やお近くの美術館などに足を運んで、ちょっとした美術芸術に触れてみることをお勧めしたいわけだ。




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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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