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あさかぜさんは見た

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11/26

Tue

2024

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11/14

Fri

2008

伝えようとしても伝わらない。
お互いのなにかが邪魔をしていがみあう。

理解しあえないのがこれほど悲しくて辛いとは。

努力をする。
あきらめない。

それよりも思いやり。
思いやりは相手の立場を知ること。
でも、わからなければ?
向こうが教えたくなければそれまで。
一生懸命外側から知っていくしかない。

尊敬しながら、配慮しながら。

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11/13

Thu

2008

「人の神経を逆撫でするような言い方をするお前は教祖様かなんかかよ」

「言葉だけ巧みに操っても人を信じさせる行動をしていない」

「自分を押し売りして誰にでもわかってもらおうと思うのは傲慢そのもの。相手をわかろうとする努力もしないで、自分だけ押し売るという神経そのものを改めたほうがいい」

「ひとつひとつの動作でどれだけ社会生活でもまれたきたかすぐわかる。やっぱり言っちゃいけないこととか、やっちゃいけないこととか、踏み込みすぎてラインが見えない。空気が読めない」

私は受け取ったものを忘れないように、改善するように、努力していかなければならない。
ちょっとした幸福さえも不機嫌にさせたり、怒らせたりするような人間ではいけない。
どれだけ未熟か、思い知り、打ちのめされました。
礼儀も配慮も気遣いも社会人としては不適格です。
器の小さすぎるところも問題です。

「差」というものを考えれば考えるほど、屈辱的な格差がありました。
負けません。忘れません。教訓に、胸に刻み込んで決して忘れないように精進しなければ、この先何度でも同じ過ちを自分は犯すのです。
やらなければなりません。

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11/12

Wed

2008

好きな人は嫌いになれない

基本的に人と接するとき、好きなところをたくさん見つけていくタイプなので、イライラしたり怒ったり、気に入らない場所、価値観の合わないところがあったとしても、それほど嫌いになったりはしない。

ただ、付き合っていく上で距離感が必要な人は突き放すし、もっと知りたい人は近づいていく。
こう見えてもぶっきらぼうだし、相当礼儀作法や気遣いがなってないし、行動や感じるところが人より違うので、相当人を不愉快にさせる事がある。

で、最近嫌われちゃったわけなのですが、ところどころこっぴどいことを言われながら、自分もその人の欠点は充分分かっているけど、嫌われてもなんだか嫌えない。

どうにかしてわかりあいたいなぁ、って思っても、向こうがシャットダウンして受付窓口完全閉鎖となると、もう手のうちようがない。
困っちゃうわけです。

それでもなんとかわかりあえるはずだと斜めから見たり、逆から見たり、角度を変え、時間をかけてじっくりと対峙する。

できることなら愛したい。
人を好きになりたい。
だって出会ったのだもの。
何億分の一の人だから、少しでも機会があるなら知っていきたい。
そう思うんです。

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11/10

Mon

2008

よくネット上でも議論になって賛否両論荒れる題目。
「いじめるほうが悪いのか、いじめられるほうが悪いのか」


私はこれだけはしっかりとしておかなければならないと思うのです。
私の答えは「いじめる方が悪い」ということです。


説明をします。
まず「悪い」という言葉を「責任」と判断します。


そうなると、いじめられる側に責任があるとすると倫理判断上矛盾が生まれることになります。
法律で言うところの被害者にも責任が及ぶ事になります。
忘れ物をして盗まれた。
投資で儲かると言われて出したがお金が一円も返ってこなかった。


忘れ物をした人には罪はありません。
法廷で「あなたがかなり不注意だったからいけないんでしょう。盗んだ人よりもあなたが悪い」とならないのはどうしてでしょう。


お金を出した人には罪はありません。
法廷で「あなたは金融商品に付いての知識が皆無で、少しでも調べる努力をすればこのような話は嘘だとわかったはずだから、騙した人よりも騙された方が悪い」とならないのはどうしてでしょう。


傷害では、「挑発した人」よりも「挑発されて怒って殴り、怪我を負わせた人」に罪があるとされます。


この判断は「行為の選択権はどちらが握っていて、選択したことを行使したか」から考えて「行動の結果」を見ます。
「誰が直接的に行動したからその結果が起こったのか」ということです。
傷害であれば「暴力をふるって傷つけたのは誰?暴力を振るうことをやめることができたのも誰?」となります。
「行動の結果」だけを見れば、当然賛否両論になり、「いじめられる側の原因」を追求することをできます。
「いじめられる→うじうじしていて内気だからいじめっこの気持ちを刺激した」とかなるわけです。
いじめられる側の要因は「間接的な要因」です。
通り行く「人に暴行を加えたら(行為をしたら)必ず相手は傷つき(結果)」ます。
しかし「うじうじしているから(行為をした)といって、必ず傷つけられる(結果)」とはならないのです。
いじめられた側は理不尽なことを押し付けられているにすぎない。


当然、「行為と結果の因果関係」を見る上で、「その行動の結果を起こした選択権はどちらが握っていたか」となると、当然「いじめた側」になります。
傷を負ったほうは「傷つけられる」か「傷つけられないか」の「選択権」がなくいじめられています。
もしいじめられた側に原因があるのなら、いじめられた責任をすべて自分で負わなければいけません。
怪我を負わせられても、自分で治療費を払う。
どこか障害をおうほどの想像を超えた残酷なものであっても、本人が責任を負わなければいけません。
色気のある姿であるいていて、レイプされたら女性は自分で責任を負わなければいけません。
程度によって判断基準を変えるというのもおかしな話です。
一番初めのほうに書いたとおり、倫理的矛盾が生まれるからです。
その罪の軽い重いは言えても、責任の立場が逆転するなどと言う馬鹿げた話はあってはならないのです。


いじめられる側に原因があるのは、あくまでいじめられる前であって、いじめが始まってしまえば、行動の責任はいじめたほうに当然あるわけです。
傷を負わせたほうが間違いなく悪いのです。
「いじめ」という言葉は「いじめられる前の状態」を示す語ではなく、「いじめられている状態」を示している語であることを、再度わかっていただければ、やはり行動の責任は誰にあるのかということがはっきりすると思います。
倫理上・法律論的観点から以上のことは書いております。




人間は、弱いです。
強そうに見える人でも、もろさを抱えています。
人間は「完成に近づく生物」では決してないのです。
もろさや弱さを認め合っているから、この地球上で叡智を結集させて生きてきているはずです。
それなのに、弱いものを断罪するというのは、どれほど傲慢なのだろうと思います。


思ったとおりにできないから、思ったとおりの人間になかなかなれないから、短所を長所で隠しながら生きていっているのです。
長所ばかりが伸びていき、洗練され、理想に近づくというのは個人の努力や目標設定においては有用ですが、他人にまでそれを求めて糾弾するとなると、

「他人を認められないほど余裕を持ち得ない人間」

と見てよいのではないでしょうか。
人間は弱さがあるのが前提なのです。
その前提を認められないのは、器が狭いか、自分のもろさを認めていないか、精神が疲弊しきっているかのどれかです。


そして人間は生きている限り限りなく「死に近づく」存在です。
今も少しずつ細胞が劣化していっています。
死を前提にしている生物が、わざわざ傷をつけるのです。


暴力がまかり通るのは自分の感情を押し付けているからではないでしょうか。
自分の価値観ばかり考えて相手を少し見ただけで知った気になって、もう知ろうとする努力もしない状態で暴力行為をするということは、あまりにも子供じみた考え方ではないのでしょうか。


もしそのような考え方をする人がいるのであれば、私は改めていただきたいと思う。
相互理解をする努力をやめたときから争いの火種は生まれてきます。
自分だけの価値観をぶつけ合えば戦争が起こります。


わからないものを知ろうとする。
気に入らないものを少し違った角度から見ようと努力をする。
平和への架け橋は、相手を知ろうとする情熱にあると思うのですが違いますでしょうか。
いじめた側もいじめられた側もお互いの心情を吐露し、みんなでその事実に付いて考える、考えさせる、そのような機会を作って気持ちを知る。


平和になる手段を一生懸命考えること。
この尊い精神を教えなくてなんとする。
そう思うのです。
争いをなくそうと防止を心がける相互関係こそ、最善の状態であります。
解決・防止策まで考えるのが議論です。

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11/08

Sat

2008

東京に来てよかったと思う

色々なことが経験できた。
作品を書く都合上半分以上はこもっていたけれど、色々な感情を経験できた。

太宰治を追って11月1日に三鷹へと行った。
そこの太宰治文学サロンに足を運び、銀座のルパンというバーに出入りしていた事を知り、初めて銀座価格というものを体験した。
3杯飲んで6千円。
うへー。
みんな飲みなれているというか、酒の楽しみ方を知っている人たちばかりで、自分には敷居の高い場所だなと思った。
あんなにおいしいマティーニを飲んだのも初めてだった。
幸運にも入ったときに奥のコーナーのカウンターに案内され、太宰治の写真を目の前にして飲めた。
今でも充分もてるほど、というかタレントみたいにカッコイイ男です。
あの新潮文庫とかに載っている頬杖をついた憂鬱そうな太宰の写真とは違って、とてもキザな感じさえもします。
今年で没後60年来年は生誕100年ということで、自分が書こうとしているものに、何かめぐり合わせを感じます。

もし作品が世に出るようなことになれば、私にとって相当厳しい状態が生まれるかもしれません。
そしてそこからが作家としての本当の戦いが始まるような気がします。
人を背負う、魂を背負う、心を背負う、すべてを見つめる。
空白の時間を過ごし、語れる過去もあまり持たないまま幼稚園児におじさんと呼ばれる歳にまでなってしまいました。

私はこれから過去を作ります。
そして歴史を作っていきます。
誓います。
私が思い描いていた事を、私は生涯かけて実行していきます。
日本国内の影響にこだわらず、海を越えて、世界標準で。

感謝しなければならない人がたくさんいます。
私を支えてくれ、心配し、愛情を注いでくれる母親。
私を支え、不器用ながらも愛情を伝えようとし、心配から嫌味のようなことも言われ、嫌な思いをしましたが、父親がしっかりと稼いでくれたから、私がここまで育つ事ができました。
心の弱い父親だとは今でも思いますが、忍耐強くお金を払い続け、それを数々むげにしてしまったことを深くお詫びいたします。
そして、私は父親が息子を誇れるような立派な仕事をしたい。
諦観させたり落ち込ませたりしたことが多々ありました。
今まで、ひとつとして感謝できなかったけれど、今は父親を尊敬しています。
私は、ようやく私の意志を持ち得ました。
そしてようやく飛びたてます。
両親の心配に絡まれてがんじがらめになっていた精神を今自由にさせます。
両親へ。
あなたたちが子供を愛しているように、私も両親を愛します。
私は私の仕事をしたい。
私は私の人生を生きたい。
数々の多大な援助をしてくれた人たち。
私を歌舞伎につれていってくれて、無気力の世界から救ってくれたK。
私が今東京にいるきっかけを作ったS。
などなど、必ず私は飛翔するでしょう。
待っていてください。
無駄ではなかったのだと、そう、思わせたいのです。

ルパンでは80周年記念グラスをいただきました。
また、お会いしましょう。
太宰先生。
ルパンのスタッフの方々。
ありがとう。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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