よくネット上でも議論になって賛否両論荒れる題目。
「いじめるほうが悪いのか、いじめられるほうが悪いのか」
私はこれだけはしっかりとしておかなければならないと思うのです。
私の答えは「いじめる方が悪い」ということです。
説明をします。
まず「悪い」という言葉を「責任」と判断します。
そうなると、いじめられる側に責任があるとすると倫理判断上矛盾が生まれることになります。
法律で言うところの被害者にも責任が及ぶ事になります。
忘れ物をして盗まれた。
投資で儲かると言われて出したがお金が一円も返ってこなかった。
忘れ物をした人には罪はありません。
法廷で「あなたがかなり不注意だったからいけないんでしょう。盗んだ人よりもあなたが悪い」とならないのはどうしてでしょう。
お金を出した人には罪はありません。
法廷で「あなたは金融商品に付いての知識が皆無で、少しでも調べる努力をすればこのような話は嘘だとわかったはずだから、騙した人よりも騙された方が悪い」とならないのはどうしてでしょう。
傷害では、「挑発した人」よりも「挑発されて怒って殴り、怪我を負わせた人」に罪があるとされます。
この判断は「行為の選択権はどちらが握っていて、選択したことを行使したか」から考えて「行動の結果」を見ます。
「誰が直接的に行動したからその結果が起こったのか」ということです。
傷害であれば「暴力をふるって傷つけたのは誰?暴力を振るうことをやめることができたのも誰?」となります。
「行動の結果」だけを見れば、当然賛否両論になり、「いじめられる側の原因」を追求することをできます。
「いじめられる→うじうじしていて内気だからいじめっこの気持ちを刺激した」とかなるわけです。
いじめられる側の要因は「間接的な要因」です。
通り行く「人に暴行を加えたら(行為をしたら)必ず相手は傷つき(結果)」ます。
しかし「うじうじしているから(行為をした)といって、必ず傷つけられる(結果)」とはならないのです。
いじめられた側は理不尽なことを押し付けられているにすぎない。
当然、「行為と結果の因果関係」を見る上で、「その行動の結果を起こした選択権はどちらが握っていたか」となると、当然「いじめた側」になります。
傷を負ったほうは「傷つけられる」か「傷つけられないか」の「選択権」がなくいじめられています。
もしいじめられた側に原因があるのなら、いじめられた責任をすべて自分で負わなければいけません。
怪我を負わせられても、自分で治療費を払う。
どこか障害をおうほどの想像を超えた残酷なものであっても、本人が責任を負わなければいけません。
色気のある姿であるいていて、レイプされたら女性は自分で責任を負わなければいけません。
程度によって判断基準を変えるというのもおかしな話です。
一番初めのほうに書いたとおり、倫理的矛盾が生まれるからです。
その罪の軽い重いは言えても、責任の立場が逆転するなどと言う馬鹿げた話はあってはならないのです。
いじめられる側に原因があるのは、あくまでいじめられる前であって、いじめが始まってしまえば、行動の責任はいじめたほうに当然あるわけです。
傷を負わせたほうが間違いなく悪いのです。
「いじめ」という言葉は「いじめられる前の状態」を示す語ではなく、「いじめられている状態」を示している語であることを、再度わかっていただければ、やはり行動の責任は誰にあるのかということがはっきりすると思います。
倫理上・法律論的観点から以上のことは書いております。
人間は、弱いです。
強そうに見える人でも、もろさを抱えています。
人間は「完成に近づく生物」では決してないのです。
もろさや弱さを認め合っているから、この地球上で叡智を結集させて生きてきているはずです。
それなのに、弱いものを断罪するというのは、どれほど傲慢なのだろうと思います。
思ったとおりにできないから、思ったとおりの人間になかなかなれないから、短所を長所で隠しながら生きていっているのです。
長所ばかりが伸びていき、洗練され、理想に近づくというのは個人の努力や目標設定においては有用ですが、他人にまでそれを求めて糾弾するとなると、
「他人を認められないほど余裕を持ち得ない人間」
と見てよいのではないでしょうか。
人間は弱さがあるのが前提なのです。
その前提を認められないのは、器が狭いか、自分のもろさを認めていないか、精神が疲弊しきっているかのどれかです。
そして人間は生きている限り限りなく「死に近づく」存在です。
今も少しずつ細胞が劣化していっています。
死を前提にしている生物が、わざわざ傷をつけるのです。
暴力がまかり通るのは自分の感情を押し付けているからではないでしょうか。
自分の価値観ばかり考えて相手を少し見ただけで知った気になって、もう知ろうとする努力もしない状態で暴力行為をするということは、あまりにも子供じみた考え方ではないのでしょうか。
もしそのような考え方をする人がいるのであれば、私は改めていただきたいと思う。
相互理解をする努力をやめたときから争いの火種は生まれてきます。
自分だけの価値観をぶつけ合えば戦争が起こります。
わからないものを知ろうとする。
気に入らないものを少し違った角度から見ようと努力をする。
平和への架け橋は、相手を知ろうとする情熱にあると思うのですが違いますでしょうか。
いじめた側もいじめられた側もお互いの心情を吐露し、みんなでその事実に付いて考える、考えさせる、そのような機会を作って気持ちを知る。
平和になる手段を一生懸命考えること。
この尊い精神を教えなくてなんとする。
そう思うのです。
争いをなくそうと防止を心がける相互関係こそ、最善の状態であります。
解決・防止策まで考えるのが議論です。
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