※追記:今日のは読むだけ時間の無駄。
4人に1人くらい一般社会人の(マナーなど)研修を受け持つ教官は「常識」とか「社会人」という言葉を相当使う。
我々観察者としての作家の世界(芸術世界)には、「常識」なんてばかげた概念を植えつけてしまうと「創造」の段階になって大変なことになるので、捨て去る。
例えば、100人いたとして、2人がとてつもない非常識な人間になり、他は「常識人」だとする。社会人とか常識とか言う定義すらあいまいだが、微妙なものは除いて、それらが確実にくくっているものとしよう。
さて、問題。
2人の非常識な人間は、常識的な人間98人に阻害されます。
常識的な人間は98人もいるので、2人のことを阻害しても常識になります。
2人の人間はだんだん人間的に腐ってきて、人間を信用しなくなり、心が邪悪になっていきます。
そして最終的には、常識的な人間に激しい憎悪を抱くことになります。
ついに2人の憎悪の塊たる悪魔は「殺せるだけ殺そうぜ」と1人15人で合計30人もの殺人を犯しました。
何が元となって30人もの死者が出たのでしょう。
2人も殺されるから32人ですね。
作家っていうのは、この「根っこ」を見る。
それを見れないと「テーマ」にならない。
「その人間が殺した動機を作らせた何かがあるはずだ」ということだ。
ただ単純に「常識」とは見ない。
「常識的概念が絶対的に正しいと信じた人間の驕り」が非常識な人間を邪悪に育てたと見たほうがいいかな。
それよりもたぶん、非常識な人間の「生活できない恨み」。もっと言えば「飯の恨み」になるのかな。
「金の恨み」とか。
テーマをどこに絞るかは各作家に任せられるけれど、「自慢げに語られるものほどうさんくさい」「絶対的正義など存在しない」など、ひねくれてなきゃ作家ってできないと思う。
「人に迷惑かけません」とか、「一般人として常識」とか、「まともに社会人やりたい人」「人から嫌われるのが怖い人」は、私たちの領域には本当には踏み込めないと思う。
で、教官の話に戻るけれど、彼らが言っている「常識」とか「当たり前」とか「できなければ社会人として失格」というのは、とにかく「人を不快にさせないための最低限のレベル」から言っているわけであるが、変な人で、ある領域においての能力が著しく突出している人っていると思う。ていうかいる。
だいたい歴史に残る大天才って、日常生活レベルにおいて「なんだこいつ?」って単純に思われるほどの逸話が必ずある。
教官たちが言っている「当たり前」のことって、少なくとも「その仕事における常識」であって「人間としての尺度」ではない。
それを何を勘違いしたのか、「人間として失格」とまで言う人もいる。
正直言ってそこまでいっちゃったら、もう「病気」です。
自分の視野の範囲が著しく狭いことを暴露しているに等しい。
平均的な人間を育てることって簡単だし、普通教官に求められるのもそのレベルでしかない。
「接客業として失格」「社会人として失格」ならば、例えば影で社内環境が悪く、お前たちが日々職場で行っている強烈な人権侵害は、「文明社会に生きる人間として失格」なのではないか、と。
発展途上国にいる、高度な近代的文明を持たない原住民でさえ、他人を大切にする。
たとえば、接客業だとして、客を大事にして社員を大事にしないとか、どういう神経しているんだろうな・・・人間として(笑)って思う。
著しい人権侵害によって、深い傷をおったとなったら、証拠さえとっておけば、もはや「刑事犯」ですからね。
刑事犯においては、罪の大小なく罪は罪として「前科一犯」となるので、その前段階を行っている人間は、「犯罪者予備軍」になるわけだ。
・・・となると、「常識」すらも疑われる。
だいたいこういう病気の方は、「社会人としてのマナー失格」=「人間として失格」=「人間として役に立たない」=「人間として最低」と次々と連結させて最終的には人権侵害を行う。
まあ、長々と書いたけれど、結局最後にまとめると、「常識を盾に、他人罵倒しなければいけない理由」なんてどこにも発生しないってこと。
まだ何もやっちゃいないのに「この仕事に向いていない」とか、ちょっとミスしたくらいで「素質がない」とか、結局教官でさえも人間だから、「自分の好きな基準」でしか物事を見ていない。
まさにそれって「非常識の典型」だと思うのですがいかがでしょう。
いつも私が言いたいのは「自分が正しいと思っているやつほど危ない」ってこと。
「私間違えまくってるけど、どうだっていいじゃん」って開き直りすぎちゃうやつも危ないけれど。
あー、今日は頭悪そうな文章いっぱい書いた。
「ダメな文章」「悪文の典型」とか添削されそう。
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