どんな無数の言葉よりも、たった一枚の写真のほうがものの見事に真実をついていることは多い。
時折、ひとつの才能を目の前にして、自分の中の至らなさが見えてきて、走っている車の前に飛び込むか、高いところから走って飛び降りたくなるほどのやりきれない感情を抱くことがある。
夜の街をふらふらと見ていた。一見豪華そうに見えるビル群。中に入るとテナントは撤退、客は少なく閑散としているということも少なくない。
そんなで見回っていると、路上で写真を広げていた。人が数人集まっていたので見たのだが、自然の色や人の笑顔など、よく撮れていた。日本語が書かれた紙が路上においてあって、ポーランドから世界各国を写真を撮りながら旅をしている人らしい。
つまり、写真の腕一本で世界を股にかけているプロというわけだ。本当に実力があったらそれだけで食べていける。空がこんな色を出すのか。自然がカキリと広がった砂漠色の大地から、見ただけで乾いた風まできそうな写真。見たこともない、きのこの幹にてっぺんにブロッコリーが乗っかったような巨木。人の優しい笑い、銃を持った小さな子供の殺意のにじみ出る目。愛嬌のあるちびペンギン。
お金を払って南極に行くという目の前の写真家の夢に一役買いたかったが、あいにく写真を買うお金の余裕すらもなかった。
財布の中の事情で自分が苛立ちを覚えたのではなく、はたしてこの写真に匹敵する文章が描けるのかと言ったら自分は自信がなかった。
まだ足りない。まだ届かない。自分の満足するものは描けていない。
ただその思いにかられて、逃げるようにして一通り写真を見てその場を去った。
肌寒い夜にバーに立ち寄る。えらそうに店の人と話しながら自分の価値観を話す。客観的に見てただのどこにでもいる酒場のたちの悪い酔っ払い程度のレベルでしかない。
酒場には夢を語る人は多い。でも自分はしらふでもべらべら語る。ずっとたちの悪い酔っ払いなのか、それともそうではないのかは、自他ともに知らない。
自分への苛立ちを常に持ちながら生きるのは楽なことではない。いつかきちんとした答えが出るかどうかもわからない。
無数の言葉よりも一枚の写真が真実を語ることは多々ある。
では、言葉の芸術的目的は?
相手の感性や体験を借りて、それらを膨張させていくようなものでなければならないのかもしれない。
写真にはないものを、誰かの心に刻むこと。それが小説の目的なのかもしれない、とふと感じた。
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