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あさかぜさんは見た

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11/27

Wed

2024

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10/01

Sun

2006

眠らないで、ずっと起きていられたら、どんなにいいことかと思ってしまう。
寝るのが惜しい。
考えたり、情報を集めたり、情報にならない情報を目に入れたりしているうちに時間は過ぎる。
生身の人間よりも、別のものを相手にしているような感覚は昔はあったけれど、今はあまりない。
養老さんが「無意識を否定しているから睡眠も人生の大事な一部だということを認められない」だか、なんだか書いておられたような気がした。
でも、思うに、起きて何かしていたほうが、ずっと有意義のような気がしないでもない。
アメリカでは別に気にならなかった、時間から追いたてられるような恐怖感が、日本に帰ってきてからはすっかり戻ってきて、毎日が追い立てられているように過ぎる。
どうしてこんな気持ちになるのかすらわからないが、おかげで眠ることすら惜しい。
日本人は細かすぎる。
スケジュールや電車でさえ分刻み。
五分遅れてきたら腹が立つ。
どうしてだろうな。
でも眠ることにする。
眠らないと、ぼんやりしすぎて何がなんだかわからない。
それでも、寝ることに抵抗があるのは、これも強迫観念なのだろうか。
ゆとりとは、自分だけで作るものでもないのかもしれない。

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09/28

Thu

2006

白きものほど汚れが目立つ
人生にはよい洗剤などはなく
染み付いた汚れこそ
よき味を出すものを
理想が潔癖症を生み出し
己がどれほど汚れているかも省みず
「お前は汚れているからそこに立つ資格がない」
と言い張る

ああ
人間の傲慢たるこの金切り声にも近い叫びよ
耳が痛くなるほど言われるべきなのは
欠点すらないと思い込んでいるそなたではないのか

助け合いが生まれるのは
完璧ではないからではないのか
人間たちよ

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09/26

Tue

2006

知り合いの身内が癌になってしまい、治療に専念している。
知り合いは、ブログを書いていらっしゃるので、いろいろと様子はわかるのですが、その中で、

病院側は厚生省から出ている通達が原因で
長く入院させることが出来ないらしい。
(朝風注:厚生労働省)

というフレーズがあり、一度退院させられたのち、再入院ということになったようだ。

親御さんからも、「子供の体重や体調管理に気をつけないと、(体重などが)基準値から上回ると、児童相談所などから指導される」ということを聞いた。

「それって、行政指導やん(笑)」と話したが、複雑な気持ちだった。

法律というものは、水槽の中の魚を泳がせるごとく、理性を前提としていなければならない。
誰もが、「この魚は、水槽の外には飛び出たりはしねぇだろ」と考えて水槽の中のことを考えていくのだ。
あとは、関係性の問題なのだ。
「外来魚はあっち。国産魚はこっち」
基本的には理性と良心があるということを前提として、作っていかなければならないものを、最近の規則や法律というものは、すでにこの理性と良心を疑ってかかっている。
極端な話、いくら法律や規則を作ろうと、理性や良心がなければ、それは守られることはない。
新しくどんどん作ればよくなるという話でもないのだが、
「国産魚同士で共食い始めたよ」
「いやいや、時折外来魚が」
という感じで理性と良心を疑ってかかっているので、規則や法律は増え、厳しくなるばかりだ。

国家や行政、というものは、「民衆」という単位で人をくくっていかなければならず、「個人」は「民衆」という観念から保護しなければならない。
「民衆の秩序」を守るために「個人を罰する」のだ。
「個人の秩序」を守るために「民衆を規制する」のではない。
個別の例で見れば法律は「個人の保護」だが、社会上のシステムとしてある法は決して「個人のため」にあるものではない。
それは「国家秩序」のためにあるものだからだ。
個人を縛るようになると、法としては下の下。

しかし、最近は何かと、国家が「各家庭にまで介入」するようになってきた。
これは国家としては、すでに「民衆を信じていない」という状態に近い。
逆を言えば、「個人の価値観の肥満化」である。
個人の価値観はエゴと同一化しやすい。
つまり、均衡を保たなければならないエゴが、すでに「糖尿病状態」のように、いきすぎている。
このために、自分勝手すぎる、時には他人の生命をも脅かす行為となって社会に表出する。

当然、そこで「なんとかしましょう」「なんとかしてくれ」こういう声が多数上がる。
そしたら、もう、規則規則ですよ、これ。
なにこれ。

行政ももっとマニュアルっぽくやるのではなく、現行のシステムを生かして「コミュニティー」を作っていけばいいものを、いかにも「機械的」だ。
昔っから、そうらしいけど、公務員(というよりお役所とか)は、仕事はきっちしりなきゃいけないけれど、民衆と接するときまできっちりしなきゃいけない、なんて規則は・・・あるの?
あるならやめてよ。
ぶっきらぼうすぎて、「こいつ本当に今楽しいのかな」って疑ってしまう。
警察官はたまにおちゃらけた人いて楽しいけれど。
うちの父親が物凄く申し訳なさそうにスピード違反の罰金取られたって言ってた。
トーカ堂の北さんみたいな様子が浮かんだ。
「あの~、すいません~。ここ~60キロじゃなくてぇ~、50キロ制限なんでぇ~、15キロオーバーでぇ~、19800えん~」
とか、なんとか言ったかは知らないけれど。

極端な状態として、法律も規制もなくて、各家庭の躾が行き届いていて、なにひとつ問題が出ない社会というのが究極の理想状態なわけだ。
それが「国家」という単位として存在しえるのか、というのは別としてね。

本当に人のために役立つ規則というものは、規則や法律そのものではなくて、人と人との相互作用から生まれるのだと思う。
気づくはずの人への感情が麻痺しているというのが一番の問題なのだろうけれどね。
文句だけから規則を作れば、人は生きてこない。

人を規制することを考えるよりも、どのようにしたら人が自然に繋がっていくかを考えたほうが、ずっと正常な社会がうまれてくるように思う。
それはもう法律の範疇ではなくて、人々の意識の問題だけれど。
マニュアル行政じゃ、いかにも不自然すぎる。

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09/25

Mon

2006

こどもたちの将来 利益

少年たちの凶悪犯罪が取りざたされる中で、統計的な結果を論拠として、子供たちの凶悪犯罪化は今にはじまったことではない、たいした変わらないと言う人がいる。

社会というものは、
というよりも、大人というものは、目に見える結果で持って何かを論じようとする癖がつくようだ。
そして、その目に見える結果のみを強く論拠とし、論拠を示さない示唆の批判にも使われる。
その側でとある子供は「ああ、やっぱり大人ってやつは、何も理解しようとしない」と大人に対して仮面をかぶる。

今年のはじめめに、ホリエモンが逮捕された。
私は常々この人が嫌いだった。
彼が絶頂期の頃、彼のことが嫌いだと書けば、とてもめんどくさいことになるので、細々と別のところでぼやいたことがある。

そもそも、通貨とは信頼で成り立っている。
一万円と印刷された紙切れを、一万円の価値として皆が認めているのは、「信頼」があるからに他ならない。
その中に、本当にカラーコピー機で印刷された、見分けのつかないような精巧な印刷紙が混ざっていたら、「信頼」はなくなる。

「商売」、というのは利益行為だ。
生産し、「通貨をやりとり」して、売り上げを伸ばそうと様々なことを考える。
通貨をやり取りするということは、「信頼」をやりとりしているということだ。
つまり、商売の信義則とは、「信頼」をお互いやり取りしなければならないものを、彼はフジ株を買うときに、見事に「信頼」をぶち壊した。
この行為は「商売人」がすることではない、と思っていた。
「商売人」ではないのだから、彼がやっている行為も「商売」にはならない。
これは長く続くはずがないと密かに思っていた。

彼が逮捕されて社会からほぼ抹殺された状態を見て安堵している人がいるかもしれない。
だが、残念ながら私は20年後、彼のような行為を行うことが「常識」になると思っている。

よく、チャットをする。
お互い姿が見えないので、中学生や高校生とも話をすることがある。
みんながみんなそうではないとあらかじめ言っておく。
十人十色なのだが、本音の飛び交う中でちらほらと気になることがある。
特に低年齢になるにつれ、「友達だからこうすべき」とか、「ああしたらこうしなければならない」という考え方をする子供が多いことに気がつく。
これは、「お金払ったからあんたはこうすべき」という大人の理屈をそのまま受け継いでいる。
その考え方は「思いやり」とは、程遠く、似てもにつかぬものだが、子供はそうすべきことが思いやりの表現と思っている。
よく考えてみれば、都会の子供は外で遊ぶよりもインドア派だ。
テレビ画面を見ながら、生身の感覚をやり取りするのではなく、感覚をともなわない現象だけをやり取りする。
格闘ゲームなどでの痛みのともなわない暴力。
カードゲームでさえ「トレード」がある。
自分の有利なカードをもらおうと交渉する。
小さい頃に養わなかった肉体感覚は、大人になって養われることは滅多にない。
これは、「脳と体の分離」を指す。
(これがちょっと進むと、どうにも体が動かなくなったりするのだが、それはまた気が向いたら書きます)
これらの理屈だけ学んで、感覚をともなっていかないと、当然友達感覚にも「取引的なもの」が反映される。
やはり子供も何が「利益」かをよく考えて行動している。
この「利益重視」の考え方が顕著になると、「自己中心的」となる。

彼らは大人になり、社会の重心を占めるようになり、ホリエモンのような行為をし、そのちょっと上の世代から、非難を受ける。
すると彼らは言う。
「僕ら何も違法行為なんかしてません。すべて合法ですけど何がいけないのですか?」
今なら違和感のあるこの言葉が、きっと違和感がなくなる。
そして社会は疲弊する。

利益という言葉がある。
やはり大人になると利益というものは、数字で顕著に表されるものと思っているだろう。
しかし、本当の利益とは、たかが紙切れに表すことができるのだろうか。
例えば、社員をフル活動させる。
休みなしで働きづめ、バイトも使って使い捨て、結果数字だけは顕著に上がる。
が、社員の半分は精神病、またはその他の疾病で退社。
戦力が落ちて、なかなか事業が拡大できないでいる。
それを社員が働かないからだと責める。
これは、「利益」なのだろうか。
利益を無視した「利益」が社会を疲弊させる。

社会が起こした結果には、数字のようにすぐには顕著には出ない。
長い空白の時間を経て、ゆっくりと表面化していく。
それが、子供たちだ。

統計的に見れば、少ない凶悪犯罪が、前例のない事件を迎える日になり、ようやく人々は「何かおかしいのではないか」「あれが悪いこれが悪い」そう言い出す。
統計的に見れば、少ない凶悪犯罪の数例が、社会を徐々に壊していく。
ようやく人々は「このままではいけない」そう言い出す。

心がやり取りされる時代ではなく、現象がやり取りされる時代になる。
ホリエモンは心をやり取りしたのではなく、とことん現象をやり取りした先駆者だった。
そして、これから現象をやり取りすることが常識となる時代を迎える。

もうすでに、「現実感のない子供」は徐々に出来上がってきている。
それは誰のせいでもない。
「国家に住まう人間すべての責任」として、「子供」がいる。
「利益」を上げる大人たちが、徐々に皮肉な子供を作っていく。

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09/24

Sun

2006

きっこのブログと伝言ゲーム

(2010年4月9日追記:「伝言ゲーム 例題」の検索ワードでいらっしゃった方、右側中央のカテゴリーより「伝言ゲームの例題」を選んでおすすみください。ご用意させていただきました。…遊びで☆)



ジャーリズムの日記はどうして書いたかと言うと、友達が「きっこのブログ」に書いてある内容をどう思うかと聞いてきたので、思うところを書いた。
時事ネタに関しては、かなり疎いので、正直に言ってコメントできるほど知識がなく、裏づけも反論もできないまま「本当なのかな?」と思ってしまう。
ただ、時折、恣意的なものを感じてしまう。
このブログの書き手が、意図的に事実を改変した場合、誰がその悪意を見抜けるのだろう。

例えば言論の恐ろしさと言えば、「私は」と「私に」のように、たった一文字違いでも、受け手には正確な情報は渡せなかったということになる。
まるでこれは「伝言ゲーム」と同じ要領だ。

この友達の悪意のない投げかけによって、さび付いた脳が少しだけ、ぎこちない音を立てて動いているのだが、茂木健一郎さんはこのブログを褒めていらっしゃった。

その中で、「ここはプライマリーなメディアだ」、と書いていらっしゃって、「はて?プライマリーって?」ってアホなこと疑問に思って調べたら、「primary」には「主要な」の他に「最初の」「初期の」「(情報などが)直接の」などとジーニアスには書いてあった。

なるほど。
この意味を考えると、「別に情報の信憑性はともかくとして」というニュアンスにもとれるわけだ。

そう、解釈するとですよ?
同じく茂木先生のブログに書いてある、

 『きっこのブログ』は、そのスタンスや
内容など、すでに「マスコミ」を超えていて、
情報価値が高い。

という文章の中の「情報価値」という意味が、「情報の信憑性としての価値」という意味ではなくて、「情報の自由性がいかに高いか」「言論の自由としての多様性がいかに高いか」としての「価値」という意味にもとれるわけです。
むしろ、こちらの意味のほうが先生のブログに書いてある文面からは強く読み取れるように感じるのです。

この解釈の違いが、すでに「伝言ゲーム」になってることがおわかりでしょうか。
「きっこのブログ」の書き手には、時折主観的な意見が強く入っています。
そして、多分な推測がふんだんに含まれています。
客観的な事実にもとづく推測は、客観的な事実では断じてありえず、「推測の域から出ない」わけです。
この主観が、本来正確に読み取るべき情報を、間違って読んでいたとしたらどうします?

例題を言うとこうです。
作者はAを憎んで、Bに好意的だった。
作者はAから「Bを殺してやりたい」と直接酒の席で聞いていた。
作者は偶然Bに馬乗りになり、刃物を持っているAを見た。
作者は「AはBを殺そうとした」と客観的な事実にもとづき警察に証言した結果、Aは殺人未遂で逮捕された。

普通、読者はこれで満足なのでしょうが、さて問題は、本当の真実は「実はBがAに刃物で切りかかってきて、偶然Aが取り上げたところを作者は見かけた」のだとしたらどうでしょう。
客観的な事実から推測された証言はすべて「偽」となるわけです。
そういう疑いを誰もかけないのでしょうか。

例えば他にもテレビでよくテロップが出ますけれど、その時、カッコ付けで発言に付け足されているものを見ると思います。
カッコがなかったら、「みんな死んでしまえばいい」となるところが、前後の関係から「(凶悪犯罪者は罪の償いようがないから)みんな死んでしまえばいい」となったら、意味合いは180度転換しますね。

個人的にはこのような情報の不安定さを推測や思想としてあげるのではなく、いかにも真実として取り上げていくのが大嫌いなのですが、茂木先生の「プライマリーなメディア」という言葉を見て、「ああ、インターネットって不安定で自由勝手なのが売りなのだ」と思ってしまうわけです。
自分もこの一言に妙に納得しようとしている。
で、自分もそうしているわけだし、所詮「同じ穴のムジナ」であることは変わりがない。

でもやっぱり不思議なのは、情報を信じても裏づけをしようとする人が極端に少ないということ。
やりっぱなしの伝言ゲーム。

P.S.
さっきの例題で推理小説かなんかが書けそうね(笑)

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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