自分が楽な時、それほど苦しい経験をしていない時、他人の苦しみは理解しがたい。
「終わってみればたいしたことはないさ。今だけだよ。超えてしまえば楽だから」
そのようなことを言う人もいるし、自分も余裕がある時は人に言いそうになる。
傷は克服できると言うが、ずっと心に残る人もいる。
克服できる人は、本当にバイタリティがある人で、常に新しいことに挑戦できるような人だ。
だけれど、そうじゃない人もいる。
前にも書いた気がするけれど「正しいことを実行できないのは、いつでも心の問題が横たわっているからだ」と常々思っている。
どうすればいいのか、わからないでいる人もいる。
自分は酒で流す。
その手段さえ持っていない人もいる。
貧困に陥った人が必要な栄養素を補うべく食物を買うのではなく、チョコレートなどの嗜好品を買う傾向が強まったとジョージ・オーウェルは書いていたそうだ。
「ウィガン波止場への道」だそうだが、プレミアがついていて買えない。
人は苦しくなれば苦しくなるほど、現実から目を逸らす手段を見つけようと必死になるのかもしれないことは、自分が色々な過去を思い出して歯止めがきかなくなった時、酒やゲームに走ることから、よく理解できる。
「貧しい」というのは「貝(=過去の通貨=富)」を「分かつ」の文字で出来ていて、貧乏とは「富を分かつことが乏しい状態だ」と言っていた人がいた。
友達も、財産も、能力も、魅力も、心の豊かさもないような状態の人のことを究極的にはさすけれど、ここまで追い詰められたら死ぬか犯罪起こすか、どちらかになる。
何らかの状態で心が貧しくなってしまうと、今度は他人から何かを奪っていくような発想しか生まれなくなる。
それは極度に甘えて裏切られたら他者のせいにするとか、豊かな生活をしている人間は恵まれていて貧しいものに分け与えることなどないのだから何らかの形で責めてもいいし、場合によっては自分の場所まで落として、この苦しみを味わえとさえ思う。
「苦しみ」と言っても、様々なものがある。
上記の「金」から「仕事」「人間関係」「環境」「責任」「拒否感」「無力感」「欲望」「抑圧」等、数え切れないほどあるだろう。
自分の場合は、よく思春期のことを思い出す。
そのことを想起させるような人間や事象が起こると、心が落ち着かなくなる。
現在進行形ではあっても、今起こったことではない。
例えば何年何十年と心の傷となる場合もある。
他人から見えない傷が疼く時、酒びたりになることもある。
その様子を客観的に見たら、ただの「アル中」にしか見えてこないだろう。
節約しなければいけないのに酒を飲んでいたり、時間が貴重なのにゲームばかりしていたり。
誰かと比較して、それは甘えだと言う人もいる。
でもそれを言う人は、あなたよりこんな優れた人がいますけど何故努力してそこに行き着こうとしないのですかと言うと、たぶん言い訳をしだす。
その人が特別だからとか、環境的に恵まれていたとかなんとか。
もしそんな事情を一言でも出したら、苦しみから逃れられない人と同じになる。
だって、自分が今よりさらに上に行けないのなら、そりゃドツボにはまった人間を救い出す手段なんか見つかりませんよね。見つからないからこそ現状維持の場所に甘んじているのだから。
人は人のことを理解しようなんてしない。
自分の共感できるところにしか興味を示さない。
そういう意味では薄情だ。
でも薄情な人間ばかりじゃない。
ほんの一握りだけれど、人間味溢れて情に厚く、見知らぬ他人にでも優しくできる人間がこの世界には結構多くいることを私は実体験から知っている。
だからこそ自分が体験した苦しみだけを前面に出して、人間という存在そのものを否定するような行為だけは、なるべく避けたいと思っている。
そのか細い希望が、大きな可能性を生む事だってある。
苦しみは誰に理解してもらえるものでもない。
それでも抱え切れなくて人に話したくなる時もある。
日本の社会は息苦しい。
誰もが抑圧しあう関係にある。
苦しみは常にパーソナルな事情であるからこそ否定されるものではないのに、何故誰もが話を聞く前に「世間的感覚」から人の心を握りつぶすような真似をするようになったのだろう。いつの時代も人は基本的にそのようなものなのだろうか。
苦しみはいつでも個人のプライベートな問題で、かつ現在進行形。
だからお前の心にしまっとけ、ではなく、手を差し伸べる人間的な豊かさがないと、この国は貧しさで溢れてしまうと考えている。
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