特に「恋」の説明の「満たされない気持ち」ってところが、とても腑に落ちました。
そして「恋」に執着すると「恋着」になるというんですね。
恋着=[名](スル)深く恋い慕うこと。また、物事に深く執着すること。「金銭に恋着する」(デジタル大辞泉)
なんだ辞典に書いてあったじゃないか、と今長年思っていたことが解決されたような気がします。
恋は勝手に始めて勝手に押し付けるもの。
永遠に満たされることはないし、満たされないことで恨みに思うことだってある。
じゃあなんで愛が憎しみに変わるのか。
愛には恋と同じようにエゴが付きまとい、恋とは違って愛はエゴとの戦いにもなりそうです。
恋は一種の執着心のようなものであり、勝手に捉われてしまうようなものであり。
自分もこの「恋」というやつには散々苦しめられてきましたよ。
それで恋することを自分の感情の中から一切排除しようと決意したわけなのですが。
恋という感情に似た執着心に関しては様々なところで応用して見るようになりました。
特に表現の世界では承認欲求が満たされない人間が、何かの拍子に反射的に人を逆恨みしているのがどれだけいるのか。
「愛」がないから、そういうことになるんだと考えていました。
じゃあ例えば「お前の作品には愛がない」なんて言われたら物凄く抽象的に感じるし、15年前に言われたら確実に逆恨みしていたタイプの人間でしたから、「愛」を知るには相当苦労しないといけないのだなと今常々感じているところです。
苦労を感じる時点で愛じゃない、なんて言われそうですが、「愛は楽に知ることができない」というのが現時点での持論ですから、この先変わるかもしれません。
少なくとも人間ですから腹の立つこともあれば嫌になることもあるし文句を並べ立て酒でもなければ我慢できないなんて事態も出てくるでしょう。
それでも向き合い続ける。誰よりも懸命に。
少なくとも、ずっといい気分で向き合えるなんてこと絶対ないと思ってるので「愛は忍耐だし苦労だし覚悟でもある」って考えているわけです。
その過程がどれだけ大変なことかは、通った人しかわからないし、通った人同士でしか分かち合えない。
「恋」は「落ちる」って表現があるけれど、「愛」には「落ちる」という表現がない。
表現の世界に入っていくのは、多分最初「恋」に似た感情ですよね。非常に多い。
憧れのものがあって、ああいう風になりたい。自分を認めて欲しい。
夢を見るように影響されてストンとやりたい動機が生まれたりする。
でもだいたいは「こんなに苦労するとは思わなかった」とか「苦労の物理的・年齢的限界」を感じて出て行くわけです。
なんせお金なんて、よほどの天才(もしくはマーケティングの天才)じゃないと最初は手に入らないのですから。
修行でもないけど長く続けていくには基礎力が必要になるし、やっぱり多少なりとも好きの源泉を自分が携わっている対象の中に見出していかないと表現など絶対マンネリ化して誰にも相手にされないものになってしまう。
時間は流れ時代は変わっているのに自分だけが未熟なままなんだから。
愛情って言われるものは、やっぱり相手のこと、対象のことをいつも考えているし、どうすればいいのか心が壊れそうなほど考えている状態になって、やってみて、ようやく人が気がついてくれるというレベルなのだと思っております。
「恋」はエゴがあっても邪魔にはならないけれど、「愛」を貫くにはエゴは邪魔になる。
ただ「表現世界の愛」なんて他者から見れば究極のエゴイズムだろうし、サイコパスの気がないとやりきれないところもある気がします。
人間に万人を愛することは不可能だからこそ、表現の世界に身を殉ずることを選ぶといったところでしょうか。
その愛はとても歪で狂ったものにしか見えない。
他人が不快に思うような愛など存在しないって思う人もいるかもしれませんが、私はよく悪役を愛する女性が出てくるお話などがありまして、それを見て「愛って色々あるものだな」と学んだ記憶があります。
そういう観点では愛って、何が最もそれを華々しく咲かせることができるのかを行動し続けること、なのかもしれませんね。
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