私らというか、まあ私も含めて下々の者は、日々くだらない情報をネットを通じて流し合い、さも知ったかのような感じになって、別になんの実にもならない行為を繰り返していて、それをコミュニケーションと言う言葉の馴れ合いによって自分の中の何かを誤魔化しながら生きております。
現実で生きていても離れる人は離れるし、当然他人の人生は他人のものだし、拘束できようはずも決め付けようはずもない。
しかし別にそんなに話し合っていなくとも、何ヶ月かに一回久しぶりに会うような人でも、やっぱりこの人とは気が合うのだなと感じたりする。
そうしたらお互い「積もる話」がたくさんあるわけだ。
だいたい十の位が年が変化すると、内容も軽いようで重苦しくなるし、お互い話さない言葉の間や、その面構えから、なんとなく何かが読み取れてきたりする。
そういうのが「付き合い」なのだろうなと感じたりすることが多々ある。
久しぶりに出会って「この人いい面構えになったなぁ」とか思うと、苦労の片鱗が別に話してもらわなくともわかるわけだから、時間を過ごして年をとったという充実感を得られるわけです。
その上で出てくるのが「立ち振る舞い」ってやつで、ここらへんには人生で得てきた色々なものがにじみ出てきます。
とはいっても、本当に色々な繋がり方があるわけで、結構私の人との繋がり方は偏屈だったりするので、ここに書いてある内容もくだらないといえばくだらないのですが、自分はあまりやりたくないくせに、馬鹿騒ぎが気軽に出来る仲間がいるのは羨ましいなと思ったりします。
そんな雰囲気を見ているだけでいい、参加はしたくないと思っているのに、ああ、あんな不思議な結束力は羨ましいなと思いつつ、家庭を持っていない今しかあのようなことはできないなとも思いつつ、それでも落ち着いたらまた一年ごととか数年後とかに再会して同じような調子で騒げるのだろうなと思ったり。
子供の頃にはとても思いもつかず、思いもよらないことが起こってくるのが「大人になる」ってことで、それをいつまでも拒否していては自分は結構主張しているつもりでも、その主張自体が無様になってきます。
生きていれば、それ相応の苦労があるわけで、それ相応の付き合いが広がり、それ相応の立場に落ち着きます。
そうして、周囲の人脈が形作られ、人脈により環境が整ってきます。
環境があるから人脈があるかといったらそうではなく、環境は意識によって無視することも改革することもできるので、わりと意識が「環境」そのものに捉われていると、様々な事が縛られているかのように出来なくなります。
環境をぶち破ることは原理的にはとても簡単な事で、客観性と好奇心があれば外へ外へと広がっていきます。
初めて会う人にも積極的に声をかけたりとかね、一週間あっただけでも結構広がるきっかけは持てるんです。
ちょっとした勇気があるだけで、一ヶ月で相当変化します。
新しい人と出会い、新しい感性を理解しようと努めると、今度は半年で以前とは考えられなかったペースで何かが舞い込んでくるようになります。
とはいっても、きちんと失礼のないように信義を尽くすってのが前提になるわけですが。
人が人を生かすんです。
自分が生きているわけじゃない。
漢字で書くと「自分だけでは生きられないし、活きられない」というところでしょうか。
特に上に行こうすればするほど、人をよく活かさなければ活かされることもない。
だからこそ、人を殺してしまう人は、必ず見えない壁にぶつかり狭まってくる。
傷つくことも傷つけられることもたくさんある。
清廉潔白で大人になることは難しいし、たとえ自分が潔白だと思い込んでいても、人間同士合わなければやっぱり傷つくんです。
道理がわかっていないとかね、よく「幼い人」だと「それ、あんたが言うことじゃないよ」ということを臆面もなく言われたり言ったり。
他人は容赦ないしね。
我慢できずにぶちまけちゃったりとかね。
そんなこんなで欠点を持ちながら人と繋がっていくわけですね。
「百戦錬磨」って言葉があるんですけどね、これ、「百戦百勝」の意味で捉える人がたまにいるんですけどまったく違うんです。
勝負の中で磨かれていくってことなんです。
実践、つまり行動の中で磨かれていくことを言うんです。
もし、人と付き合うと傷つくこともあるからと消極的になりそうな時、この言葉を思い出すとよいでしょうね。
石は磨かれて珠になります。
人との繋がりの中で、宝石のような人間になることを目指せばよろしいかと思います。
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