「役者ってのは相手を食おうとするから自分の間でやろうとする」と言っていた人がいた。
それをぶった切るのが「編集」なのだそうだ。
例えば小説はスタンドアローンかもしれない。
役者も突き詰めれば、それが個性となって部品として組み込まれる。
部品として組み込まれたとき、原石からカッティングが行われる。
その絶妙なカッティングが行われたものを「宝石」と我々は言っている。
カッティングにはルールがある。
そこで独自性を発揮されても、何故か変になってしまう。
宝石の場合は光の法則にしたがっている。
だからルールがある。
さて、芸術という言葉がある。
よくわからない言葉だが、やはりどの業界にもルールがあって、それを破ろうとする人守ろうとする人が必ずいる。
芸なら自分もやっている自覚があるが、さて、「術」とは何だ。
国語辞書によると「目的を遂げるための手段。方法。てだて」になり、ウィキペディアによると、『会意形声。「行」+音符「朮」。「朮」はもちあわを意味する語であり、「ねばる」「へばりつく」の意を有する。ある道(行)にへばりついて取得したわざ』となるらしい。
別にこの2つの単純な意味合いから導き出すわけでもないけれど、確かに粘りついて何かしらの目的を達成した芸は、一つの「術」として形成されるわけだ。
それを先人は一生懸命やってきた。
我々もそうだ。
私は最近声優のようなマネをし始め、そしてある程度素人ながら思いっきりがついてくると、相手を飲み込もうとするような、妙な意識が生まれてくることに気がついた。
ナルシシズムの一種なのだろうが、自分を通して相手を見ようとする意識が自分には強い。
これが我が強ければ「お前よりも俺の方が優れているんだぞ」という牽制を常に与えたいという目的が先にたつだろう。
自分は今文章の他に演技というものをかじり始めて、一体人間の本性はどこにあるんだろうと探り出している。
自分がやろうとしている全てのことは何かしらの原石にはなるかもしれないが、だがカッティング作業までできているとは言えない。
自分の技術が高まれば、それがそのまま世に受け入れられるというのは、まずあり得ない。
ようは編集する人がいて、「芸」にこだわり続ける両者の人間がいてこそ出来ることなのだが、世の中に技術が優れていても教えることがド下手な人間がいるように、価値ある原石を生み出せる能力と、その原石をカッティングできる能力は別々であるからこそ、どちらか一方しか持っていない人がいる。
しかし不思議な事に「出来るなら教えられるでしょ」というのが一般的な見方だ。
残念ながらよほどの才能がない限り、やればやるほど「芸」にはルールがあるってことがうっすらわかってくる。
そして、最初から「芸術」にこだわる人間がいるけれど、本当のクリエーターなら、この「芸術」から逃れたいという意識が働く。
ようは「先駆者」にならんとする意気込みや、自らの結果に対する自負のようなものだ。
クリエーターの葛藤は常に矛盾の中にある。世界の一部を切り取らんとする己と、常に広がり続ける世界そのものの二律背反の中でもがき続ける。
逆に言えば、だからこそいい。
そのもがきの中で目的を見出そうとする。
達成すべきものがあるからこそ、そのために「芸」を磨こうとする。
所詮今を生きている我々はそれでいいのだと思う。
逆に言えば目的を持たぬ「芸」ほど、まとまりがなく依存性が高く、依存性が高いからこそ創造性がない。
人付き合いでも依存性が高くなるとダメになるのと同じように、自分の頭で生産性をなくしたらおしまいだ。
さて、私は何を言いたいかっていうと、「術」を考えるなら「芸」を磨かなければいけないということと、「術」というルールがあるのにも関わらず、「芸」の中にもルールがあって、この中に入る人は葛藤し続ける運命を背負うってことだ。さらに広大に広がる「自然」というものへの畏怖が常にあるから二重苦三重苦なのだ。
「芸」を持つからには目的を持たなければいけない。それも、現実的な目的で想像可能な目的だ。それがなければ、よほど「自然」という「ルール」に従っていない限りは滅びる。
面白い世界で、考えれば考えるほど八方塞のようにも感じる。
そう感じるからこそ、針のような穴に、世界の真理のような光明を見出すのも芸に携わる人なのだと思う。
さて、各々方、いかがお考えか。
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