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あさかぜさんは見た

日記

01/10

Sat

2026

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08/01

Wed

2012

いじめはなくならない

「あー、死んでせいせいしたわ。いなくなってよかったよね。ようやく死んでくれた」
そこまでハッキリと言う人間がいなかっただけに、この手の言葉を吐く人間が本当にいるのだという実感が持てなかった。
しかし、いざ聞くと反吐が出る。
しかも自殺に追い込んだ当事者ともなると、人間的な価値を感じない。
ゴミか何かを八つ裂きにするような気持ちで暴力的な手段に出てもいいとすら思う。

「いじめはなくならない。他者を蹴落とすことで自分が生存するための優越感や安心感を得るものはいつの時代にもいる」
そういう人がいた。
確かにそうだろう。

動物界の中には自然といじめに近い行動を起こすものがいる。
いや、生存し、遺伝子を残すための本能的な行動を起こすから動物なのであろう。
しかし同種では共食いではない限り相手が死ぬまではやり込めない。いるのかもしれないが、私は知らない。巣の中から卵を蹴落とす雛がいることを知っているくらいだ。

人はいつから物理的な暴力以外、つまり言葉でやり込めることは暴力に該当しないと考えるようになったのだろうか。
そして直接手を下していない事柄に関して、いかように評価してもよいと思うようになったのだろうか。
むしろ古今東西そうであったのか。
善が存在する限り、悪が滅びることはない。
悪は常に善の対極としてあるのだから、善の存在こそ悪を浮き立たせ、悪の存在こそ善を浮き立たせるという相互関係にある。
自然の中を見ても、動物たちは食うか食われるかのしのぎを削っている。
人間だけが例外であろうはずがない。
一体人間はどの範囲まで理屈を広げ、どの範囲まで狭めてはいけないのか。
人間とその暴力に関しては人類が永遠に抱えるテーマかもしれないとすら思う。
人間は生きるためにあらゆる植物動物を殺し、生きている。
人間は人間に食われ、生きている。
複雑だ。

社会は相互の関係によって成り立っていると考えるのは、頭の中の夢物語なのだろうか。
役に立たないのはゴミで、人間として生きていく希望は与えられず、早く死んだほうが社会のお荷物にならずに済み、人間として命を持つ意味や意義を成さないのだろうか。
実際には搾取の構造があり、下種が好き勝手言い、優しい人間が死んでいってしまうような社会で、どれほど努力し訴えようと馬耳東風であり、自分には関係ない面倒な話としか受け取られないのだろうか。

そうじゃない。
私が接してきた人は、たとえ裏側で文句や非難を口にしていようと人がよくて、快くしゃべってくれて、時としてさりげないおもてなしもしてくれて、それぞれの想いにあふれていた。
そういう人たちだっているんだ。
どうして人間をモノ扱いしてしまうんだ。
自己憐憫が強くて、自分のみを守ることに長けていて、それでいて人の自尊心を奪うようなことしかしゃべらない悪辣な性格の人間は確かにいる。
でもそういう人間の言葉や感覚に合わせてはいけないんだ。
なぜなら次の犠牲者は自分の大事なものだったりするから。
それがモノではなく友達だったら?
大好きな人だったら?
その人を失ってもいいの?
そういうこと考えられなくなっている人が怖いし、感覚がわからない。
ただ、楽しいと思うのだろうか。
ただ、ゲームで勝ち続けるような作業でしかないのか。
死んで喜ぶという神経はどんなものなのだろう。

いじめはなくなることはない。
それはわかっている。
でも、どんな風に、気持ちを整理してよいのかがわからなくなるのだ。
はらわたが煮えくり返るとはこのことなのだろう。
今猛烈に苛立っている。
下衆がいなくなることはない。
だったら、どうやっていじめをなくしていくのか。
人の輪を使ったネットワークと、自らが悪意への耐性を持つくらいしか今はアイディアが浮かばない。
人を殺すのも人だが、人を救うのもまた人だ。
私はそれを体験した。

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07/29

Sun

2012

否定する前に見ろ

昔「料理の鉄人」という番組があった。
最近料理をしたいなと色々レシピを眺めていて、ふと昔やっていた番組を思い出した。
Youtubeで探していると3代目の和食の鉄人、森本正治のものがあった。
略歴はWikiにあるが、その後どうなったのかなと見てみたら、今度は「カンブリア宮殿」の番組を見つけた。
料理の鉄人はアメリカのテレビ局に売られ、アメリカ版として放送されていたが、アメリカでも彼は鉄人として活躍し続けていた。
そして今や「予約の取れないレストラン」「10億投資しても回収できるレストランオーナー」として経営の手腕を発揮している。
平均して1店舗あたり7億以上の年商を誇る。10億円以上も稼ぎ出す店舗もある。
ある店舗はおまかせコースで1万円から。決して安くはない。
福島の原発事故があり、日本の食材が海外で警戒されている中、そんな懸念を吹き飛ばすほどに流行っている。
築地から空輸されてくる魚などを扱っているのに、なんのその。
一晩で400人ものお客をもてなすのだから凄いものです。

私にとっても非常に参考になる話ばかりで、例えば「味噌汁」に対してクレームがついたことがあったという。
味噌が沈んでいて、日本人ならかき混ぜることに気がつくが、上澄みだけ飲んで「なんだこれは!味がないじゃないか!」と怒られたという。
つまりニューヨークの人たちは「第一印象」ですべて決まってしまう。
ならば、現地の人たちに受け入れられる和食は何か。
生魚を食べない人たちの「入り口」となる料理は何か。
マグロの「刺身」ではなく「カルパッチョ」としたら受け入れられるとか、その「入り口」を通してちゃんとした和食をいずれは食べてもらいたいという考えがあるという。
しかし受け入れられるためには和食の概念を崩す必要がある。
和食をベースにした創作料理とも言える、まったく別次元の和食が出てくる。

森本は言う。
「おいしいものはないと思っている。環境や気分によって同じものを作っても違ってくる。ビジネスとしての料理は3割」と。
「僕らプロだから3割に命かけます」
そんな言葉の中には徹底した「現地戦略」がある。
つまりは「誰を相手にしているのか」だ。

創作者が合わせるべきはスポンサーでも身内でもなく、「受け取ってくれる人」だ。
その人たちは誰で、どういう人たちで、何を好んでいて、どんな知識があるのか。
そこまで読み込んで作っていく。

これは自分の立場に置き換えてもよくわかる話だ。
読んでもらうまでが大変。
つまりお金を払ってもらって実際に体験してもらうまでが大変なのだ。
既に買う段階に来ている時、何らかの「期待」、言い換えれば「予測された満足」がある。
それを上回れば、また手にとってもらえるし、下回れば二度と読んでもらえない。
読んでもらってこそ「作品」として完成する。
しかし傲慢になってはいけないのは、当然「これは自分が面白いと感じるから相手も面白いと感じるだろう」とか、「教えてやろう」とか、行動を押し付けるのではなく、あくまで相手から学びつつ手法を考える、ということだろう。

「優しさだったり、おおらかさだったり、そういう気持ちならうまくいく」

謙虚に学べる姿勢と、こだわりを押し付けない気持ちこそ、発想の柔軟さを得ることになるのだろう。
何故、それが受け入れられているのか。
この視点を磨くには否定が先にたってはいけない。
ちゃんと観察し、きちんと学ぶこと。
こだわって悩みぬくより「入り口」を作ろう。
大事なのは「相手が次もワクワクするような行動」だ。

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07/26

Thu

2012

アイディアを育てる社会

人は良くも悪くも想像できないものは信じないという性質があります。
そして一番の盲点となるのは、自分が信じない及び否定している事柄に対し、相手方の立場から物事を構築せず、完全な思考停止状態からの一点張りに陥るという癖を持っています。
これは、どのような人間でも陥る思考の盲点です。

人は己の感受性と経験的な思慮と思いによって、相手の感情を量ります。
時として愚かで、的外れで、おせっかいでもありますが、その閉鎖された感覚と他者への熱心な想いが、何かしらの奇跡と呼ばれるものへの信念を与えたりもします。

人の発展を妨げるのは「想像力の欠如」と、それを促す行動です。
想像力からはじき出されたものを英語では「idea」と呼ばれるものです。
日本語にすると「アイディア、理念、考え」、哲学では「イデア」と呼ばれたりもします。

世の中には信じられないものがたくさん存在します。
その信じられないものは、何故信じられないものなのでしょうか。
答えはわりと単純なところに落ち着きます。
つまり想像できないか、経験していないか、のどちらかでしょう。

私たちは経験せずとも想像の翼を羽ばたかせ、自由に物事を考えることができますが、閉鎖的な考え、つまり最も自己中心的な考えになると、より多くのコストを自ら支払わなければ得られないということがしばしばです。
これはお金の話をしているわけではありません。
私たちが最も建設的な意識を他者に与え、自らも率先して建設的な行動を示せるにはどうすればよいのかの話をしているのです。
何故建設的な行動をしなければならないかというと、創らなければ消費するばかりになるからです。
労働とは生活の為に有りますが、生活の為だけにする行為は、自らの眼で物を見ても、必ず歪んだ眼で見てしまいます。
その歪んだ眼は他者の創造性を必ず阻害するからです。
もっと言えば異種の物を認めない眼を自ら養ってしまうことになるからです。
その行為は他者の創造性を育てず、ただ消費することになります。

私たち人間は、あまりにも個人的で小さなことにこだわって生きています。
その「小さなこと」が個人にとってはとても重要なことで、そして関係のない他者にとってはくだらないものになります。
この違いは何処から来るのか。
他者へは時として「想像力の欠如」を超えて、「己の閉鎖性」を如実に表しているのかもしれません。
現代の私たちは知識をつけました。
それゆえに知る前に論評しようとします。
一度も出会ったことのない人間に対して出さえ、何かしらの評価を下そうとするのです。
これはとても恐ろしいことであり、あまりにも柔軟で豊かな発想を持っているとは言い難い行為です。

しかし私たちは一度に出来ることや、一生に成し遂げられることは、たかが知れています。
だからこそ自分以外の人間は、自分にはできないことをしており、そして自分より優れた素質を必ず持っていると考えるのが健全であるといえます。
私たちはあまりにも今の豊かな環境に慣れすぎていて、他者が何をしてくれているお陰で自分の生活が成り立っているのかを、まったく意識せずに過ごせるほど狂った環境にいるのです。
今の状態こそ、豊か過ぎる環境こそ、異常な状態であると誰も意識しない、異常であると言った途端、お前こそが異常だと指差されるほどに豊かな環境にいるのです。
その慣れに、自分の思考を麻痺させてしまってはいけません。
何にも感謝できず、ありがとうの感動すら忘れる薄っぺらな大人が出来上がってしまいます。

私たちは、相手の考え方が気に入らないからといって、相手のすべてを否定することはできません。
思考の盲点を完全になくすことは出来ませんが、相手の心やお話に熱心に耳を傾け、じっと聞くことぐらいはできます。
都会に来れば、あらゆる人間は他人となり過ぎ去っていきます。
誰もが他者であれば個人主義になるのは当たり前です。
他人同士ならば他者の為に尽くしても見返りがないと思い込んでしまい、その感覚が他者の創造性にすら冷たく接してしまう癖を作り上げてしまいます。
創るものがなければ消費できる期間はあっという間です。
消費のみの社会では奪い合いがおき、必ず疑心暗鬼に見舞われます。
そのような社会では創造性が生まれるはずがなく、人々は荒んできます。

私たちは創造しなければいけない。
創造を大事にする心を養ってこそ、次の創造へのバトンが渡せます。
最初から完璧などない。
失敗から数多くのことを学べばよいのです。
さもなければ食い尽くすだけの消費の文化しか残らず、滅びるしかなくなるのですから。

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07/26

Thu

2012

攻撃性が足りない

「大胆さが足りないのかもね」
それは写真を撮りながら言われたことだった。
写真に大事なのは「構図」だったりする。
レンズによって肉眼とは全く違う世界が開けている写真だが、レンズ越しに見える景色を、どう切り取っていくかがカメラの醍醐味だ。
構図の上手い人は、自然と写真も上手く撮れたりする。
自分でもあまり写真はうまくないことがわかっていたが、実際才能を目の前にすると自分の至らなさがよくわかってくる。

四条大橋で歌っていたギタリストがいた。
酔っ払いながら聞くと気だるそうな声とギターの静かなサウンドが心地いい。
最初聞いたとき、深夜に流れてくるB級映画のエンディングに流れるような曲だと感じた。
DoRED。
買ったCDにはそう書いていた。
素面で聞くと同じ曲調。
幅が無い。
歌詞もひねりがなく、まだ知性が足りない。
ああ、路上のギタリストか、もしくはバーの弾き語りで終わりそうな勢いだ、と思った。

残念ながら、と言えばいいのだろうか。
彼の歌を聞いて自分も思った。
芸術家は自分の欠陥を嫌がおうにも世界に向けて発信したがるのだ、と。
これはどういうことかというと、自らの「欠乏感」が逆に「吸収力」となって、自らの周囲に散らばる情報と事象を吸い込んでいく。
そして吸収したものを自らの中で積み木のように構築していき、世界や社会の自らの評価として取り込んでいく。
普通社会で生きていければ、社会の一般常識と適応しなければ普通に過ごしていけないから反発することも無いのだろうが、芸術家というのは所謂「エグザイル=そこに適応できず脱出しようと試みた漂流者」だ。
だからこそ一般社会、オフィスでは使い物にならないような奴らばかりだ。
自分もその使い物にならない奴に含まれる。

「大胆さが足りない」
この言葉は「漂流者」たる自分にとっては致命的な欠陥だった。
つまり、心の中でどっちつかずの気持ちがあって、誰かに嫌われたくないという気持ちが強いから、世界に対して自分の大胆さで何かを見つめようとするのではなくて、誰かの存在を他人を意識しすぎてしまうから、消極性が先に立ってしまって大胆さの欠如を招いているのだと直感させられた。
プロになれば、自分の好きな事ばかりは並べ立てられない。
それは当然のことなのだが、今まで素人がプロになり、素人の時に尖って鋭く研がれたナイフのような才能が、ものの見事に一般受けする模造刀になる姿を見てから、どこに一番バランスの取れる境目があるのかを見定められないで来ている。

芸術家にとって攻撃性がないのは致命的な欠陥だ。
それは勇気がなく、誰も守ろうとせず、保守的な錯覚からくる愚かな身構え方だ。
「漂流者」となったからには、あがく、あがく、あがき続けて見えるものを表現するしかないのだ。
それは万人にとって大事なものであるとは限らす、ある意味、部下も側近もいない裸の王様だ。

だが私は芸術家の存在意義は社会が一つの答えに集中しようとするとき、あえて天邪鬼な立場から「本当にそうなのかな?」と哲学的な問いを与えることなのではないのかなと思っている。
ああ、だから現金で懐に手に入らないのか。

才能というのは、言葉よりも前に心を打つ。
私の写真は「そこで何が起こっているのか」を説明しようとする写真だ。
大胆さがなく、消極的だ。
私の性格をよく現しているようだった。

いつだって悩んでいる。
「どうすればいいのかな」
売れたいし、お金だって得ていかないといけない。
売れるためには誰かに気に入られなければいけない。
そんな思いが消極性を招いているのがよくわかる。

芸術家としての攻撃性は何なのか。
傷つけていくほどの大胆さがないと、もしかしたら何も学べないのかもしれないと思い始めている。
ああ、この歳で、まだそんな考えかよ。
なんて、自分のことをあほらしくさえ思っているよ。

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07/20

Fri

2012

思春期の痛みの昇華

「自己」とは、どこで出来上がるのだろう。
「三つ子の魂百まで」ということわざもあるが、もっと人間的な「知性の癖」のようなものは「思春期」に育つものではないかと考えている。

今京都に居る。
時間が合わず、まともに観光は出来ていないが祇園祭は見た。
山車(だし)と呼ばれる神輿のようなものが置いてあり、ものによっては高々と山車から鉾が伸びている。
烏丸にいくつかあり、たくさんの人ごみの中それを見てきた。
後は知恩院、八坂神社など河原町散策。
観光の為に来ているわけではないので、一週間以上経ってもこの程度だ。

取材で京都に来ている。
そして同時に会いたい人にも会いに来ている。

「成人までの痛みの総量」

多くの親は気がつかないことが多く、子供の「自己責任」として擦り付けがちだが、子供は親から受けた痛みをかなりの長い間トラウマとして記憶している。
そしてその痛みは何かの形で昇華させようとする。
例えば他者への暴力となったり、内向きであるならば自らへの暴力となったりする。
つまり自傷行為へ走ったりする。
一種の暴力的な感情が芽生えるのは、暴力を与えられたからに他ならず、それは物理的手段のみ暴力だと認識している人間がよくやりがちな精神的な暴力も含まれる。
どうやら親も、その親から何らかの暴力行為、消極的暴力である無視などを受けていることが多く、かなりの大きな確率として世代間の暴力の伝達が行われている。
親の癖や考え方を子が受け継ぐという形になる。

私が暴力性の世襲に気がついたのは、ここ十年くらいのことで、今もその確信は変わっていない。
中学生の頃から自分の代でおしまいにしたい。もうこのようなことは止めよう。
そう思ってきた。
しかし消えないものがあり、内から湧き上がる破壊衝動は、まだこの歳になっても感じることが多々ある。
いきなり人を殴りつけてやろうとか、切り刻んでやろうとか、私が時折起こす若い犯罪者たちの心理がなんとなくわかるのも、自分の中にある「内なる暴力性」があるからだ。
例えて云うならば氷を持っている人間が太陽のような幸福を与えられても痛みを伴い、自らがおかしくなるような感覚になる。
自分が自分ではなくなってしまうような違和感を持つということだろうか。

しかしそこは人間。
氷の心を持っているからといって、いつまでもそうであるとは限らない。

私が人の内面を書いていて気がつくことは、多くの人間は心の内面を何らかの形で表現をしたがるということだ。
幸福ならば生産的なことに発揮され、暴力的ならば破壊的なことに発揮される。

よって内なる暴力性は何かの破壊活動へと行為が向いていく。
それは「承認欲求」の負の側面であるのかもしれない。
自分が感じている痛みを、誰かと共有する。
自分が感じている痛みを、誰かに知って欲しい。

現代では、この「承認欲求」は「評価」という言葉に置き換わりシステム化されている。
だから普段では気がつかない間に、うまく昇華されるようなシステムがあるが、人間関係のことに関してだけは「評価」とはまったく違う次元にある。
普段これは「ストレス」という形で私達が感じることである。
ストレス、もっといけばトラウマにもなることだが、トラウマの昇華は非常に難しい。
特に思春期の頃のトラウマとなると、至難の業になる。
というのも、この頃に受けた傷は親や身内などから受けた傷が多く、それが人間関係への価値観へとなって形成されているからだ。
何かの形で受けた傷がフラッシュバックする。
フラッシュバックした痛みを心の何処かで感じていて、何かの形で昇華しようとするが、根本が変化していないので、いつまでも消えることが無い。
氷の心があるのならば溶かして別のものになるまで温め続けなければいけない。
それは普通の人間には出来ないことだし、労力もかかりすぎる。
カウンセラーの領域でもあるが、カウンセラーとて人だから相性もある。
そして一番重要な事は他者はきっかけをつくることしかできないということで、最後は当人の行動次第になる。
最後の部分の「行動」だけすっぱ抜いて「自己責任」と言ってしまうほど私も愚かではない。
人はきっかけがないと動けないものだし、そのきっかけを常に与え続けることこそ大事なことであると考えている。
思春期の痛みへ影響を与えることは、その時の価値観を覆すほどの生産的であたたかなものを与え続けなければいけない。

人は気がつかない。
自分が与えたものが人間たちへ還元されていくことを。
自分が与えた暴力が、何かの形で目の前に表出してくることを。
暴力には暴力で、無関心には無関心で。
私の視点は、いつもこんな小さな人間の感情の中から社会を覗いている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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