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あさかぜさんは見た

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11/24

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03/26

Mon

2012

目が覚めてきた

なんだろう。
このもやもや感。

http://togetter.com/li/21583
エロゲが8800円もする理由

この中に、さらにある二つの別の話。
どうして儲けが出ないかとか、どうして量産されるかとか。

業界がまったく違うけれど、何かものすごい重なってくるような部分があって、なんか、もやもやしている。

現実。
突然私の話になるけれど、文学のこと。
たとえば露出を増やしたところで販売に響くわけではないけれど、色んな意味で目立たなければいけない。
知名度を作り上げるまでの途方もない労力、いや、これって「センス」だってわかっています。
この知名度も目立つけれど、何よりも「面白い!」と伝わっていかないと意味がない。この「面白い!」が一番目立つ。
しかし「売れるものを作る」ということは、結局は前にも述べた「みんなで話題を共有できてわいわいできる場作り」みたいなのがコンテンツには大事で、さらに「購入前のわくわく感」みたいなのがないと、そりゃー買うはずもなくて、一体夢見てたのはどこのどいつだってことになってきまして、今エブリスタという小説投稿サイトでいっちょやってやるかと構えているけれど、そこは現在185万タイトルがあり、その中から月間賞取ろうとしているのですよ。
改めてその数の多さと、どういう風に手を打っていくかを考えながら、3ヶ月で長編3本分の分量仕上げないと、当初に決めた3ヶ月で月間賞狙うという荒業はやってのけられない。
だって185万もタイトルあったら、ちょっとやそっとの露出じゃどうしようもないくらい埋もれまくるわけですからね。

まあ、その皆さんの苦労と労力を思うと、自分もまた馬鹿なことやっている、つまり文学やお話書こうとする人間は、なんて見返りのない、生産性や建設性もないようなところで頑張っているのだろうと、改めて自分のことも考えて、少しあほらしく感じたわけです。
そもそも文学なんてそういう「あほらしい」ってところがあるので、今更なのですが、なんだかようやく霧のようなものが晴れてきて「あほらしいよな。最初からそれを知っていたはずだけど、まだ理解してなかったな」と感じ、その上で「やってやろう」という気持ちになっているのだからおかしなもの。

そう、なんて馬鹿なんだろうなあー、と不思議とスッキリしてくる。

なんでまたここで月間賞取ろうかと考えたかというと、自分の作品増えるし、かつ8月あたりまでにお金を用意して次の予定に備えなければいけないという使命がありまして、というか目標がありまして、とにかくあの月間賞の30万がほしいわけです。

ついでに月間賞を取るまでの過程がものすごくためになるんじゃないかと。
まあ、そんな感じでやろうかなと。

そいで、その更新の様子は横のツイッターに流しますので、グダグダな酷いツイートの中から見つけてください。
自分で言うのもなんですが、ええお話ですよ。
ついでに、アニメ化も狙うぜよ。

どうして懲りないんだろうね。
書くことを止めないんだろうね。
夢があるからさ、という範疇はもうとっくに超えていて、自分の現実は、この「あほらしさ」の中にあるからだと改めてわかったからですよ。
自分じゃなくなっちゃうんだよね。


追記:
月間賞だけど、計画変更する可能性もあるかも。
随時原稿募集しているところもあるのね。
そこと併用する。

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03/25

Sun

2012

「流されちゃいけないよ」

自分で意識しているものの、言われると改めて思う部分があり、自分でルールを決めるということは、なんと眉唾なものであろうと気持ちのぶれを、弱さを思うのである。
人から言われると「ああそうだ。その通り」と自分の精神を補強するあたり、本当に弱いものだなとつくづく感じるのである。

こうありたい。
自分で理想の自分を思い描き、その通りになろうとする。
しかし酒の力で、気持ちの弱さで、いくらでも考えが、行動が、ふにゃふにゃと曲がりくねり、最後には自分がほとんど望まなかったところまで来て、なぜか周囲に合わせて、これでよかれと思っていたつもりが、自分が一番我慢して鬱憤をためていたという、ひどく目も当てられない状況があったりする。

「何度このようなことを繰り返せばよいのか」
自分は日記を書いて、このように記録しているので、何度同じことでこいつは愚痴を書いているのだろう、ああやれやれと、見るも無残な記録がこんこんと綴られているのだが、なんとも人間の精神の強さや人間力は、いやいや、人間などという大それたくくりではなく、己れはなんとも牛歩で、かつ何度も叩き直さなければ、どうしようもなく成長しない人間なのだなと感じるのである。

結局曲げたところで、損をしなければいけないのは自分で、不満を抱いているのだから、それは自分に対して正しいことをしていないということだ。

「流されちゃいけないよ」

よく考えてみると非常に難しい言葉で、自分が何に流されているのか把握しなければ見えてこないし、当然進むべきものと、流されているものの見極めをきちんとできなければ、まったく意味をなさない言葉になってくる。

自分の気持ちを大事にする。
自分のやりたいことを血眼になってやる。
やるべきことをきちんとしているつもりでも、どこかに流されているところがあれば、それはダメになる。
自分は何に影響されて生きているのか。
それをきちんと自分で見つめられる人間はほとんどいない。
その必要性すら感じていない人がほとんどだ。

流されているのか、掴みとろうとしているのか、この境目をきちんと把握できずに流されているのに掴み取ろうと錯覚している人間は多い。
もしかしたら、人類の活動そのものが、こんな境目のない錯角の勢いでどうにかなっているのかもしれない。
ただ、そうだとしても、個人の問題として、やはり流されるということに、自分の弱さをいちいち垣間見るという嫌な感触を抱くのである。

もし、40年後、これを読んだら、自分はどう思うのかな。
できることなら今すぐ教えてほしいくらいだ。

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03/23

Fri

2012

思考がめちゃくちゃ

先日ツイッターで日本の労働環境はおかしい。
家族よりも会社を優先させなきゃいけない風潮は既に体質として狂ってる。
そういう話を読んで、思い出したことがあった。

何年か前にじいちゃんの死に目にあったのだが、その時派遣でコールセンターに勤めていた。
シフトはしっかりと組み込まれていて、一度決められると誰かに代わってもらうことでしか融通がきかない。
そういう事情はわかっていながらも、医師の「ご臨終です」の言葉を病室で聞いて、すぐに電話。
その時「祖父の葬式で明日休ませてください」と伝えると「代わりの人いますか?」と開口一番言われた。
「お悔やみ申し上げます」の一言すらも、その電話では出てこなかった。
世間知らずの自分でさえ驚いた。
普通は言われないものなのか、身内の死亡すら「通常の休暇願いと同じ扱い」なのか。

そのツイッターの中でも「よく役者とか身内が死んでも舞台をやるけど、褒められたものじゃない」と言っていた。
そりゃそうだよね。
身内の死は一度きり。
ましてやきちんと葬儀にすら出ないとか、通常の神経じゃないし人間性が欠如している。
そんな「お客様中心主義」のために人間性を犠牲にしなければいけないのは、つくづく間違っている。

でもそんな強迫観念を与えているのも「消費者」だったりする。
もちろん「数字」を厳密に計算して求める経営者などにも言える。
どんな生産者であろうとも消費者にまわるものだけれど、一度消費者の立場にまわると、「払ったお金以上の対価を得ようとする人」が多い。
つまり通常意識はしていないが、その分「相手から利益を奪っている」ということに気がつかない。
そのことが巡り巡って自分たちの生活に響いてくる。
その時には「自分の行動が積み重なって今の状態になっている」とは思いも寄らないものだ。

最近どうにも苛立っている。
思考がめちゃくちゃで定まらない。
久しぶりに昔のことを思い出して、酔った勢いでメチャクチャにぶちまけてきて、支離滅裂な話を繰り替えした。
思考力がぶつぶつと切れて、何を話そうとしたのかも忘れる。
本当にひどい状態だった。
そういう状態で人と話そうとすることもひどいし、話しながら「まだ自分の中では完全に消化しきっていないものがたくさんあるのだな」と感じた。
何を見つめていけばいいのかもわからなくなりそうだ。
とにかく自己嫌悪。
今日は心の中で必死に謝っている。

そうやってぶちまけて、ようやく落ち着いてくる。
ムラムラと苛立ちが湧き上がってくる中で、落ち着かせようとする。
何か変というか、抜けきらない膿のようなものがあるのだな。
自分が一度でも突き抜けられれば、決着がつくような数々の問題。
愚痴っている場合じゃないのはわかっているけれど、人は気持ちにどこまでも揺さぶられる。
いや、自分が脆弱な精神を持っているだけの話なのかもしれない。

追記:
そうだ。
「自分は苦労しているから」という話を持ち出して、人に対して「こうしろ」というのは、いくらなんでも横暴な話で、そういうことをしてはいけないし、きちんと相手に配慮していくというのは、押し付けることではなく、うながすことなのだ。
つい自分の価値観から、「〜しなければならない」という論調で相手と話をしていた。
そういう癖は直さないといけないし、逆に「〜しないから、こいつはこう」なんて見方も止めなければいけない。
そうじゃなければ押し付けがましすぎるし、当然そのような押し付けがましい話に他人は価値を感じないのだ。
こういうのは普通の対話のみならず話作りの時にも大事になってくる。

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03/21

Wed

2012

ゲームでも同じ競走の社会

競争という言葉から思い浮かぶのは、よく「走る」ことが思い浮かぶ。
でも社会はあらゆる場所で競争しているといっていいし、知らぬ間に飲み込まれて世の中はまわっている。
それはゲームの社会でも同じだ。
単純に自負心や利己心や射幸心を満たすために動いていてわかりやすい。
その中で余裕のある分だけ他人へ施しをしようとしたり、余裕のある分商売をしようとして、自分が儲けようとする。
思えばゲームは人間が決めたルールにのっとってやるものだが、ルールにのっとってやるプレイ自体には制限がない。
何をしてもいい。
だからたかがゲームといえども露骨に性格が出る。
例えばランキングにのる人間の100位と101位の違い。
トップ3などになると、次元が違ったりするが、少々競争原理が働いていて、かつ100位までは、ある資格が与えられ、それ以下は与えられない、という条件の場合、この100位と101位の人間の違いはなんだろう。

思えば自分は競争や誰かに比べられるのが大嫌いで、そのプレッシャーであたふたする状態からなるべく解放されたいと思ってきた。
実際、田舎暮らしのような、のんびりした生活の方が体質に合っているのかもしれない。
ただ自分は芸の道を選んでいるわけだし、当然「他人と自分は違う」と主張したところで、比較されながら価値が決まっていくのは言うまでもない。
トップの競争集団から振り落とされる人間はどんな心理でいるのか。
少なくとも自分は「これで大丈夫だろう」という勝手な安心をして、自分へ妥協を与えていた。
上に行けば行くほど、犠牲にしなければいけないものが多くなり、脱落すれば資格を失うのだから、実力の世界は厳しい。

人生は妥協が損を与える。
完璧などというものは存在しないし、完璧という幻影に怯える必要もないが、「妥協の技」は本当に百戦錬磨の老練ができることで、つまり場数を踏んで修羅場をくぐり、自分が入り込んでいる領域の原則を知り尽くし、そして自分の能力を遺憾なく発揮できる人間にだけ、初めて力の程よく抜けた行動ができるわけであって、若いうちから、体力のあるうちから「これでいいや」だなんて力を入れないでいると、逆に力をいれるべきところも見失うということだ。
だから古人は「かわいい子には旅をさせろ」と言った。
冒険させてやらなきゃ、世の中の渡り方だってわからないじゃないか。
どこで力を入れて、どこで休まなきゃいけないのか、その術がわからないじゃないか。
きっと、こんな意味で言葉を残したのだろうと思う。

中途半端に力を入れて頑張ると、損をするものだけが大きくなる。
だからこそ負けつづけ、負け癖がつき、行動が消極的になる。
一度この癖がつくと這い上がるのは難しい。
100位以上は価値があり、自分が109位だったら、どれだけ100位に近くても価値は認められない。
本の少しの差。
水泳だって指一本の差、競馬なら鼻差など、本の少しの差でも「実力の差」となり「トップ」と「トップではないもの」に振り分けられる。
残酷な話だ。

芸をやるからには、そういう残酷さの中にいる。
人の世を渡るには不条理さの中で栄光を掴み取らなければいけない。
2位では価値はとことん薄れ、もしかしたら2位への妥協が見事に人生の転落を呼び込むかもしれない。
価値をとことん薄めさせるかもしれない。
自分のベストを更新しつづけ、自己記録を塗り替える。
誰も評価してくれなくとも見逃せない前身をつかまえつづけなければいけない。
たとえ無価値だと言われようと、しがみつくべき客観を大事にしなければ自分を見失う。

ひとつ面白い言葉を覚えている。
「博打って自分で決めたルールを曲げ出すと、とことん負け出すんですよ。だから、最初に決めたルールをどれだけ貫き通すかが大事です。そのルールの中で転落したり上がったりする」
ご存知の方もいらっしゃると思うが「アカギ」や「カイジ」の作者福本信行氏だ。
「人生なんて不条理なのに、いつまでも不条理さを受け入れようとしない。だからダメになる」
うろ覚えだが、インタビューでこんなことを言っていた。

どうしても自分の場合、自分のペースが崩れ出すとミスが多くなる。
これは性質として避けられなくて、今までほとんどこれで失敗してきた。

自分のペースをどれだけ安定的に保てるのか。
ルールの中で、どう実力を発揮するのか。
きっと、その力の入れ方を、私はまだまったく知らない。
いや、その前に原理を理解していないのだな。

わかってますわかってます。
負け癖がにじみ出ている文章だってことも。
だから書いて認識しているのです。

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03/15

Thu

2012

月額課金で見放題 さて電子書籍はどこで稼ぐか

Youtubeに映画が一本まるまるアップされていた。
申し訳なさを感じながらも見てしまった。
映画には何億というお金がかけられている。
その莫大な予算と労力を少しだけ考えられるようになった作り手の側の立場からすれば、違法アップロードされたコンテンツへ「もっと見たいのでアップしてください」などというコメントには複雑な心境がわく。
自分もちゃっかり見たから同罪なのにね。

テレビでスマフォで月額500円ちょっとで5000タイトルの映画見放題という宣伝がやっていた。
コンテンツはどうしてもこの方向で、つまり「月額課金で見放題」へと時代は突き進むだろうとは感じながら、「一体どこで製作資金と、次作への余剰資金を得るのだろう」と考える。

コンテンツは「元手を回収しただけ」では、どうしようもない。
当然才能は作りながら積み重なっていくものだし、「次回の作品も期待します」と言われながらも次回作へ必要な資金が確保されなければ作られることはない。
ここら辺の感覚は「見ているだけの人」には、とことん欠如してくる。
身銭を切って物を作るということをしたことがないなら余計に欠如する。

もっと莫大な資金をかけなくとも作品が作れるようにミニマムな製作が好まれるようになるのか、それともあらゆるメディアミックスをしながら垣根という垣根が取り払われ巻き込んでいくのかはわからない。
いずれにせよ、お金を得られる瞬間というのは「いかに鮮度の高い話題性を呼べるか」にかかってくるのかもしれないと薄々感じている。
例えば「ライブ」であったり「今旬の俳優の最新作」「ドラマのスピンオフ」など、現在進行形で、かつ「誰かと話題を共有する時に古くさくないこと」が最も大事なことなのではないか、と感じた。
カラオケを歌うとき、結構大事なのは「場が盛り下がらないこと」だ。
歌われた分だけ権利者や作者に支払いがいっている。
歌う方の選曲で気を遣うのは「場を共有している」ことにある。
ソーシャルの大事な点も「場を共有している」ところにある。

アメリカの映画館に行くと、日本とはまったく違って、観客が劇を見るように反応する。
見せ場には「ヒュー」と盛り上がり、悲しい場面には「オー」と悲痛な声を出す。
ちょうど日本で言う歌舞伎の観客のように画面に向かって反応するのだ。
それは文化の違いと一口に言えばそうだが、「場を共有できる準備」が「観客」にも「作り手」にもできているということだ。
「場」というのは「両者の完成された空間」にしか過ぎない。
作り手にとって、この理屈は別に目新しいものでもなく、昔からこんこんと受け継がれてきたものなのかもしれないが、やたらと「ソーシャル」なのなんなのと、どうも変な理屈で現代風こじつけをされるようになってきてしまったのかもしれない。

さて場を作り上げるには観客も訓練されなければいけない。
個人的な信条や思想が作品の価値を大きく左右する本となると余計に難しくなるかもしれない。
どのように本を持ち寄った場を作るために訓練しなければいけないのか。
その試みは、どうやらあまりなされてきていないようである。
バラバラに存在し、そのバラバラを持ち寄って「商品の客観的な価値」を作るところまでは来ているが、バラバラを新たに再構成して価値を作るという新しい領域が出来ている人は少ないし、むしろそれができている人はうまくやっている。

もの凄くプライベートな感想を持ったとする。
でもそこで人に言う時、日本人が一番怖がるのは「場の空気を乱すのではないか」「自分が的外れなことを言っているのではないか」という「不和」だ。
違ったものに対して意見や感想を述べるというのは、よほど勢い余ったときぐらいしかない。
スムーズな場を作る上でやはり大事なのは、いかに会話や対話を繰り返してきたか、というところに落ち着く。
発言しやすい、参加しやすい雰囲気作りと場を作り込む力。
いくら人が来ても、これがなければ場として機能しない。

そして場として機能し始めて、ようやく本は売れるような気がしている。
落語やジャパネットでさえ言っていた。
「昨日の話題、例えばスポーツの試合の結果などを一言でも盛り込む。すると生放送だという臨場感が出てくる。これを伝えることが大事だ」と。
ということは「いかに鮮度の高い場を作れるか」にかかってくる。
そしてそれは「本」ごとに違うし、そのバラバラの本は「作者」や「ジャンル」といったカテゴリーでくくられる場合もある。
「鮮度の高さを感じられる場を作る」ことは、各々のブランディング力次第なのだろうけれど、共通した答えのこの課題を、いかに自分の持っている作品と絡めながら作れるかが勝負どころなのだろうなと考えている。

既に「パッケージを売る時代」から「パッケージの周縁を作り込み、売っていく時代」を越えて、さらに「周縁からパッケージをカスタマイズする時代」になっている。
次はおそらく「パッケージとその周縁の相互カスタマイズ」だろう。
具体的な言葉を言うならば「観客がコンテンツにより直接的に関わる時代」となるはずだ。
その方向性でなければ、死滅すると私は見ている。
そして作者に求められる資質は「ライブをこなせる実力」であり、売り手に求められるのは「ライブ会場のセッティングを演出する」ということだろう。
「セルフブランディング」となると、この両方をこなさなければいけない。
そして初めてコンテンツが動き、売れるという時代に完全になる。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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