一生懸命非力でもがいていた時とは違い、力を持つと小指の先一つ動かしただけで人を傷つけられるようになる。
そんな力を持っているにも関わらず、平気で力加減を知らず傷つける人間もいる。
人は言葉だけで人を殺せるのに、人を生かすには言葉だけでは足りない。
私は今命を握っている。
命を握って、ほんの少し力を入れただけで冗談ではなく人間一人殺せるほどのか弱い命を握っている。
それだけ力を持った。
だが私はもう殺さない。
人の命を育てるには言葉だけでは足りない。
自分でやってみて、心底わかってくる。
こちらも全力で向き合わなければ、中途半端なことだけを与え続けてしまう。
育てることに比べれば、あらゆることは眉唾だ。
まるで子供を育てるみたいに、一つの命を育てている。
そうして芽吹くものは、輝きに満ち溢れることがよくわかっていて、そして何よりも素晴らしいものだということが見えるから、全力を注げる。
人の心は赤子のようだ。
殺すには言葉だけで充分なのに、育てるには言葉だけでは足りない。
魂一つ、全力でぶつけていかなければ、育てられない。
こうしてみると、世の中のほとんどのことは甘い虚飾に満ちていて、嘘ばかりのおべんちゃらで、「礼儀」などとのたまっていることがわかる。
偏見に満ちていて、嘘ばかりで、人と向き合わず、厚い、それこそ分厚いというには足りないほどの仰々しい仮面で、人は「信用」というものを紡ぎあっているのだというのがわかる。
育てることは命を注ぐこと。
向き合うことは魂を腹の底に座らせて向き合うことだ。
そういうことができる人間は少ない。
皆自分の利益のために動いて、そして自分に少しでも損害を与えた人間を責め立てる。
人間の愛すべき、時として憎しみすらも生む小ささ。
小ささを罵り合って、育てることなどせず、ただ「俺はあいつよりも酷くない」と、どこかで安堵を覚えながら、「次は自分の番かもしれない」「次は俺が攻撃される番かもしれない」と不安を覚えながら他人の足を引っ張り、出し抜き、そして引き摺り下ろして安心する矮小な生き物だ。
私だって自分が有利な立場になれば凄く安心する。
「なんてここはいい場所なんだ。絶対にこの場所は譲らない」と、他人を蹴落とす気持ちが強くなるかもしれない。
だが、疲れた。
創作も含め、育てるということがどれほど大変なことかを知ると、壊せなくなる。
小さなものでさえ、どれほどの時間でこれを作り上げたのかと思ってしまうと、たとえ暴力的な気持ちが芽生えようと、できなくなる。
自分のために他人をサンドバッグにし、ボロボロになれば捨てるような、それで傷つけたことを露ほどにも気にかけず、ああすっきりしたなどと次の日から誰かに笑いかけることなど、そんな下劣な真似はできなくなった。
少しだけ母が何故強いのかわかったような気がした。
全身全霊を使って、子供と向き合わなければ育てられないからだ。
それができないから、向き合うことが何かがわからないから、ただ価値観を刷り込むことばかりが正しいことだと思ってしまうから、子供を育てられない親が増えたのかもしれないと思うところがある。
自分のやっていること。
コンテンツだってそうだ。
全身全霊を使って育てること。
それはどういうことなのか。
人と向き合うことだ。
数字とにらめっこをして、人と向き合えなくなったら、もうコンテンツはおしまいだろう。
そこに自分以外の人はいないのだから。
私は泣く、怒る、笑う、感じる、楽しむ。
心に素直になって、向き合い、ぶつけ合い、傷つけあい、喜び合い、分かち合う。
殺すには言葉だけで足りるのに、育てるとなったら全身全霊使わなければいけない。
世に破壊者は数多くいても、憎しみを抱え他人を利用し、利で動く人間が数多くいても、エゴイズムで動く人間がほとんどでも、小さな芽を育てられる人間は少ない。
私は力を持った。
昔よりもなお。
だから私は自分の昇華のために他人を利用するのはやめよう。
この手に握った命を、可能な限り大事に育て続けよう。
私の愛すべき数々のことを。
人は育つ。
手のかけようで、とても美しく立派に。
指先のほんの少しの力で宝石の原石に施されたブリリアントカットがずれてしまうほど繊細なのに、歪ながらも戦い続ける、この「闘争」という「希望」そのものが素晴らしいのだ。
愛すべきものたち。
美しく生きるものたち。
それを見つめられる力を持ち、条件次第では育てられる力を持ったのだ。
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