これは私が感じている、この国の「生き辛さ」にも直結しているのですが、ほとんどの人が「失敗」を恐れますし、ゆえにリスクのある「挑戦」に歯止めをかけることをします。
こうしていれば安定的に過ごせる。
失敗すると恥。
まるでレールから外れると自分たちが大変な目に合うと小さな頃から子供にも教えます。
ましてや「周りと違うよね」という目で見られることを嫌いますから、歩調を合わせようとしたり、挑戦的な事、その「挑戦的」なことが「親が意識できなかったような意外で突拍子もないこと」だとしたら、親自身がついていけず「やめなさい」と理由も聞かずに頭ごなしに言うことがほとんどです。
今は親自身が挑戦することを忘れていますから、子供の挑戦を認められるには相当意識改革が必要になってきますよね。
多くの親が「子供にはなるべく幸せに人生過ごして欲しい」と思っているのでしょうが、あまりにも漠然としていて何がしたいのかまったくわからない目標意識です。
それが漠然としているから「安定的に」という発想が出てくるのだと思います。
ただこれが「成功」、つまり「人より抜きん出てお金を持ち続ける」という意味でなら、失敗の重要性にもっと目を向けるべきです。
結果的には「順調に物事が上手くいき続ければよい」という状態であればいい。
そこには安定など一切なく紆余曲折、山あり谷ありなのですが、何故失敗が大事になるかと言うと、「物事を上手く行かせる」には「物事が上手く行かない理由を知って」いなければならない。
つまりリスク回避ができるから、落ち目を見ずに進めるわけです。
となると、「どれだけ失敗してきたのか」は危険を避けるためには、とても重要な要素となってくるのがわかってもらえると思います。
人間経験できる範囲って、とても狭い。
農業やってない人が明日から野菜を育てるには、マラソンやったことない人が走りきるには、料理が得意じゃない人がフレンチの盛り付けをできるようにするには、つまらないと思っていた物理学が簡単に理解できるようになるには・・・などなど。
自分が知ってもいないことを色々想像したり、ましてややり始めることは、とても難しい。
それでも、やってできないことはないのです。
50も過ぎてからガンで数ヶ月の余命宣告をされ「この世で最も過酷なスポーツは?」と医者に聞いたら「トライアスロンかな」と答えられ、始め、完走するまでになり、何故かガンも克服していたという超人的な話もあるくらいです。
人は何かに挑戦する際「経験」がとても足かせになることが多い。
知ってるからこそ知ってる範囲での「失敗」を恐れるのですが、失敗は知識以外にも実践における生の情報がとても重要で、当然場所や時代や人の繋がりによっても、大きく成功するかどうかが分れてきます。
少しでも危険があると今の社会は規制の方向に向かいますが、子供から経験を奪っていくことは、それだけ大人になってからの現実感覚を奪っていくということになり、現実感覚がないことは、社会に入ってからとても苦労します。
安心なのは親だけで、子はツケが回ってきて苦労するわけです。
だったら遠回りさせるくらいだったら、どんどん挑戦させて失敗から学んだことに耳を傾け、子供が得てくる知識に大人の好奇心をくすぐられていたほうが、ずっと子供の可能性を広げるし、「成功への原理」を無意識に叩き込むことにもなります。
この「成功原理」。
観察力から養われる先見性。
人との協調によって養われる愛嬌、分かち合い、人を見抜く力。
成功するまでやり続けるからこそ成功するんだという不屈の(楽観性にも似た)精神。
失敗から生まれる次への創意工夫(アイディア・イノベーション意識)。
これ養われると考えたら、もういい事尽くめじゃないですか。
「はいはい、どんどん失敗して大物になりなさい」という気持ちになりませんか?
私は挑戦しない人が挑戦しようとする人を陰険な形で冷笑するような社会は、未来の創造力をことごとく奪っていっているのだと、よく感じます。
苦労を避けても、残念ながら「楽あれば苦あり」なので人生どこかで苦労することになります。
これは他人を見ても自分の経験上からも痛感していることです。
だったら、子供には失敗させる経験を多くさせて「大物への階段を上がる手伝い」をしてあげればいいのです。
そんな人が増えれば、この生きづらい社会も挑戦に対して「面白いじゃないですか。やりましょうよ」という活き活きとした人がどんどん出てくるんじゃないかと思っているわけです。
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