よく人間が動物自然界のことを持ち出して、現在の人間の成長と重ね合わせようとする理屈がある。
道理としては間違ってはいないし、理屈の展開としても不自然なことはない。
子供は甘えている。
社会を知らず周囲も甘やかすので甘え癖が抜けない。
社会は厳しいので厳しく育てるべきだ。
色々意見や考え方はあるだろう。
私は「子供」という存在は、上の世代が貢献し育てた社会の「結果」だと思っている。
直接関わっておらずとも、たとえ自分の生活を維持するために懸命で、子供などに一切関与しておらずとも、社会を維持するために生きてきたのなら、その間接的結果として「子供」がいると思っている。
そして、その上で「知恵のある人間が動物と同じ理屈を持ち出す」というのは、少し「知恵のない行為」だとも思っている。
植物はギリギリの厳しい環境下で飢えさせ水を与えるとメキメキと育つらしい。
野菜に関しては、この理屈で同じ種なのに信じられないほど味の違う野菜を育てている人がいるのをテレビでやっていた。
しかし普通この理屈を見て知って、そのまま現実に適応させようとすることの愚劣さときたら目も当てられない。
知恵なき行為の典型とも言えるし、やはり何も考えていない人間がバカのようにベルトコンベアー形式で他人の知恵をあたかも自分の知識になったかのようにして偉そうにしているだけ、となってしまう。
なぜここまで言うのかというと、「厳しさ」には「観察眼」が必要だということに気がついていないからだ。
それぞれの個体の性質というものを見抜いて、何が足りなくて何が足りていて伸ばすべきなのか、まったく理解しようとしていないからだ。
この部分が一番労力と持続性が必要で、骨が折れると言っても言い足りないほど努力を必要とする。
この一番大変な部分を省略しようとしているのは一体誰なのか。
社会はマニュアルに沿って育てる方がとても楽だ。
思考も分別も簡略化しやすい。
なのでシステムとして統一し、社会の人間が価値観を一様に共有した方が処理する上ではとても早い。
多様な価値観を受け入れるには柔軟な思考が必要だし、ある意味「答えを求めない姿勢」が大事になる。
正直そんなものをまとめるのは大変だし、いざというとき動きやしない。
今までの理屈が通用しなくなると、システムの組み換えをしなければならないし、とてつもない労力になる。
だからなるべくサボりたい。サボれるもんなら。
そんなこんなで立ち行かなくなると思考が硬直化し、なおさら意固地になるのは、こんな柔軟さを欠いた姿勢があるのかもしれない。
と、ここまでは与える側のことを書いたが、与えられる側は「お前たちが与えないのが悪いのだ」という考えは一切持ってはいけない。
これもまた「子供」の考え方である。
子供はいつか大人になるし、いつまでも子供の考え方では、時間が経って下の年齢の人間がどんどん増えるにつれて「ああいうバカな大人にはなりたくないよね」と後ろ指をさされるようになるし、自分たちが批判していた「社会の、大人の責任」というやつが、いつの間にか「自分の責任」になってしまっていて、子供たちからかつて自分が行っていたことと同じような批判がされるようになる。
これが「時の流れ」というやつだ。
いつまでも子供のままではいられない。
大人になっても子供のような発想では、下の世代から「早く死んだ方がいいよね老害は」と言われるのだ。
「獲得しなければ得られない」
これが人間の基本的鉄則だ。
与えられることは「幸運」なのだ。
このことにたくさん気がつけないと、大人になったとき「たくさんのチャンス」を逃していくことになる。
つまり「幸運の女神」「幸運の神」というやつは、それを見ることのできる人間に微笑む。
人間だって無視されれば腹が立つし、寂しくてやりきれない気持ちになるのだ。
幸運を無視する人間に寛大に神様は笑いかけたりはしない。
個人が「環境を維持」しているということは「何者かが了承している」という状態を意味している。
だから私から言うならば「甘える」もなにもない。
ただ他人の環境に入るのに自分の慣れ親しんだ環境を適応させようとするのは「了承してもらえない可能性」がある。
ここでいざこざが起きるのだろう。
人間にはだいたい「段階」というものが必要で、「千尋の谷に我が子を突き落とす」という理屈はあまり通じないように思う。
そういうのはドラマかアニメの中だけにしてもらいたく、そのドラマ的な思想を持ち出して悦に浸ってもらっても困るわけだ。
「段階」というのは、誰しも生まれて泣き喚くことしかできなかったのが、言葉を覚え、行動を覚え、実践を覚え、知識をつけ、知恵をつけ、大人になり、仕事をしている、という過程をたどるように、いきなり昨日まで甘やかしていたのが今日から厳しくすればいずれついてくるだろうみたいなのは「段階」をすっぽかしている。
それこそ「観察眼なき行為」だとも。
自分のことばかり主張する時代になってしまったと、ところどころで言われている。
それは「互いに向けるべき観察眼を欠いている」ことでもあるように思える。
当然人間なのだから接している限り会話をしなければならないし、きちんと向き合いたいのなら「対話」すべきなのだ。
これらの行為を欠いた突然の理屈は、いつだって少々暴力的な手段になりがちなのは、いつの時代でもあまり変わらないことのように思える。
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