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あさかぜさんは見た

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06/24

Mon

2013

ジョン・マクホーター 「テキスト・メッセージが言語を殺す (なんてね!)」

ネットをよく使いチャットなどに親しみのある人なら「w」は「(笑)」の意味であることは知っている人は多いだろう。
英語では「lol」と表現する。
日本語のチャット空間でも語尾に「wwwwww」と無駄につけたりし、芝生のようでもあることから「草をやたら生やす」と揶揄する人もいる。
実際何も可笑しくはないのに「w」を使う人はたくさんいるが、英語圏でも似たような使い方をされているらしい。
映像の中で説明されているように「可笑しい」の意味ではなく「好意を持っている」というようなニュアンスで使われている場合も発生してきている。
日本語でもワンクッション置くというか、シリアスすぎる雰囲気を出さないようにわざと「w」を文意の強い意味を和らげる効果を狙ってつけることが多々ある。
または同じように「好意」のニュアンスで使われることがある。

例えば、小説の場合でも過去の文体を褒め称え、現代の文体や用語の使い方を酷く嘆く人がいるが、長い年月で見れば言語もまた生き物なのだということが説明からもわかってくる。
小説の場合でいうならば、一つの命題が生まれる。
「読まれない作品は名作として残るか。読み捨てられる作品は残りうるか」
いきなり「昔の文章はよかった」などと考え堅苦しい文体で書きすぎた文章など、あんまり今の時代読まれないし、なんやかんや若者に受けるような消費型の軽いものも一年経てば立派な中古品として扱われるという現状がある。
ジョン・マクホーターさんは「2033年の16歳が書いた文章を見たい」と言っていたが、言語が生き物であるのなら私も興味がある。
未来ではどんな話し方をしているのか。
文章はどうなっているのか。
事故さえなければ私も生きている年齢だ。

私は言語は「着物」だと思っている。
つまり内面を表わす服装も同じだ。
醜くければそう見られるし、美しければ限界はあるが多少評価は上がる。
他者の評価はそうなるのだが、問題は個人の心の問題だ。
私は個人が使っている言語によって心の作られ方も違ってくると考えている。
そうなるといわゆる「大人が思ってもみない行動を若者が取り出す」ということになり、そして「最近の若者は」という嘆き節か何かに変わっていく。
純粋に興味を注ぐならば同じ言語ニュアンスやそれによって作られた思想によって出来た集団が何を作り出すのかというのは、邪念を取っ払うならば本当は何か知ったつもりの一個人が口出しすべきではないのかもしれない。
お前はそれだからダメなんだとか、こうするとダメになるとか、あまり言うべきじゃないのかもしれない。
言葉は一種の「楔」であり、「願望」でもある。
私たちが覚えておかねばならぬのは、自分が他者に放つ言葉は一種の「願望にも似た圧力」にもなっているということだ。
それを「社会」とか「常識」とかで包んでいる場合は多々ある。

どこかで読んだ気がするのだが、司馬遼太郎さんは二十一世紀に対応するための簡略化した言語が出来上がってこなければいけないというような内容を覚えている。
それは「伝達」という領域において、より時代にあったものが出てくるだろう、そうしなければ対応できなくなる、というような内容だったと思う。
ここらへんはどこに書いてあったか失念したので間違っていたら申し訳ない。
しかしあまりにも簡略化されると詩文調になってしまい、個々のニュアンスで言語の使い方がバラバラになり伝達された側の解釈時間が大幅に増え、「伝達の簡略化」どころではなくなる。
言語というのはある程度共通の理解があって、ようやく成り立つものなのだから。
どこで落ち着くのやら。

よく考えてみれば今の時代は「個人の時代」になってきている。
言論空間はご存知の通り、私をはじめ、皆好き勝手に言いたい放題、自分の価値観で物を言っている。
その慣れの果てが結局「共感」という部分にあるのなら、私たちは単に自分の望む情報を掻き集めているに過ぎなくなる。
そうして生物界のように滅びたり生き残ったりしながら言語もまた進化していくのだろう。
今のSFでも時折出てくるように、直接脳内のイメージをやり取りできるようになったら、今度は言語どころじゃなくなるだろうという疑問も出てくるけれど、私が生きている間にそれが可能になるかどうか、わからない。
今から心配することではないが、そうなった場合、小説などという古びたツールは生き残るのか。
それともマニアのような人間が、言語空間から想像できる自由な想像性を小説の中にあるような独自の言語表現に求めるのか。

テキスト空間と対話空間と文章空間は、まったく別の様相を呈している。
文章空間はあらゆるものを取り込みながら死滅を数多く残し、生き残ったもので進化をしようともがいている。
それは個人の願望にも似た強い意志で残ろうとしている。
それがテキスト空間に変わると「いや、ほんと、俺金ないしwまじ欲しいよねw誰か100万ぐらいくれねぇかなw」となるところが、
文章空間だと「誰もが渇望するだろう。100万ほど目の前に置いて願望成就の布石にせよと告げる人間が現れるのを」なんて気取った表現になる。

もしかしたら、今笑っているようなものが将来の常識になるかもしれない。
恐ろしいことだがw ホントw まったく考えていなかったものが生まれるのは固定概念に捉われている人間にとって受け入れがたいものかもしれないよねwww

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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