「僕は放浪の痩せ犬ですよ。有象無象のペテン師みたいなものですよ。売れない小説家なんて」
どこぞのバーでのたまって「面白いね」などと言われ知り合いが増えたりするものだから面白い。
「夢に見た。今何をしているのか」
電話が7月1日にかかってきた。
そんな電話は生まれて初めてで、近場だったので5,6年ぶりに会いに行けば、仏壇に飾ってあるばあちゃんの命日で、生前、というか私が本当に小さい頃面識があったので線香を上げてきた。
今を生きていれば自分と目に見えないものとの関係性など無視するし、認識や意識の範囲になど入ってこない。
先祖がいても自分は関係ないような意識で生きられるし、実際宗教的儀式など面倒くさい慣習にすら思ってしまうほどだ。
だけれど、様々な繋がりがあって自分がいる。
そういう「目に見えないところ」で、結構いろんなものが動いていて、そして直接的ではなくとも間接的に大きく自分と関わってくるのだという事を、驚くべきことに認識させられた。
こりゃー、墓参りは絶対にしなきゃいけないなと思うと同時に、血とか血に近い繋がりとかをもっと辿っていきたいとも思った。
そしてその綱を必死に手繰り寄せていけば、必ず望むものは手に入るし、きっと大きなものを協力してくれた人たちに返すことができると信じている。
勉学をしなければいけない、と感じている。
ちゃんとした教養を手に入れて、そして英語で文章が書けるレベルまで自分を高めないといけない。
鳥頭で右向いて左向いたら忘れる有様。
こりゃ酷いなと思っているし、書きたいものも今の頭では満足に高められる自信がない。
そんな危機意識はある。
どう計算しても、今からやっても40は過ぎてしまう。
長い道のりだな、もっと、偏差値とかじゃなくて、自由に高度な学問に触れる機会があれば、いや、欲を言ったらきりがないけれど、挑戦することにもっと寛容であったならば、自分も必要なものをもっと早く認識できたであろうに。
しかし、こんな妄想も自らの弱さから来る愚痴のようなもので、誰のためにもならない。
例え誰になんと言われようと、挑戦だけは生涯しなければ、自分に必要なものなんてほとんど見出せない。
それを教えてくれた京都の子に心底感謝したい。
緩いアーチを描いたカウンターテーブル。
店内の照明は暗いが店員の顔は見える照明。
棚に並べられたキープボトルを見れば、このバーに来る客層が安い客ではないことはよくわかる。
ネットで調べた検索ワード「芸術家 集まる すすきの バー」なんて調べヒットしたバーだった。
でも、そこは芸術家の集まる場所というわけではなかった。
飢えていた。求めていた。誰かいないのか。インスピレーションを常に行動のレベルまで落とし込んでいる人間が集まる場所はこの周辺にはないのか。
そんな思いで直感的に感じた場所を漁るのが最近の趣味のようなものだった。
だがそのバーでがっかりしたわけではなかった。
「4年今いるんです」
という女性バーテンダーに「じゃあ今は24くらいですか?」「いえ、私18の頃からやってるんで今21です」「あ、それは失礼しました」なんて会話をした。
一番最初に選んだ酒は、初めてで何があるかわからなかったのでふと見えた「竹鶴17年」の瓶に「ニッカで何かありませんか?」と頼んだ。
並べられた三種のフレーバーをつけたウィスキーと5種の原酒。
最初に飲んだのは「ウッディー&バニラ」。
ワイングラスのようなものに入ったシングルのウィスキー。
確かに香るバニラのような芳香と口の中に広がる軽いヤニ臭さと、かと言って重くない舌触りと余韻を感じながら並べられた原酒を見る。
次に5年刻みで25年まである原酒の中で真ん中の15年を選ぶ。
15年と言っても、自分の年からしてみれば長すぎる年月。
面白いことに5年から15年にかけて一番濃くなり、20、25年と薄くなっていく。
樽の偶然なのだろう。
「2800円になりますがよろしいですか?」
尋ねられるだけ良心的だ。
自分がいつも出費している一軒当たりの飲み代よりもはるかに大きい。
躊躇なく頼み、「ちょっとくだらない与太話していいですか」と聞くと「いいですよ」と言うので話す。
ダメです、なんて言う店員なんて滅多にいないだろうなんてどこかでわかっていたのに。
「この並べられた原酒見て、正直クラクラしましたよ。だって、5年が一番アルコール臭くて、それで15年で一番濁って、でも、うまみが出てきて、それで25年目になってようやくすっきりと見えてくる奥深い味わい深さってやつが得られるんでしょう。樽による偶然なのはわかりますけど、示唆的過ぎて本当めまいがしますよ。僕ね、芸術関係のことやってるんで、ああ、25年でようやくクリアになるのかって思ったらね、やりきれない思いがしますよ」
20年目が3500円。25年目が4500円。
それだけ年季が入って熟練すれば、それなりのものがついてくる。
正直そんな長い年月を修練のために過ごすのだと考えると精神的に厳しすぎる。
どれだけこの状態でいればいいのか。
自分のことばかり考える。
店員と話が弾み、色々な会話を交わす。
「私占い師に三年以内に結婚できるって言われてるんです。しかも遠方からやってくるって。お客様からいい恋人にはなれないけど、いいお母さんにはなれるねってよく言われます」
「いや、初対面でこんなこと言うのは失礼を承知だけど、あなたの場合理想のようなもので固められてなさそうだからストンと直感的に、ああこの人とならいいって思うはずですよ。だって恋人は恋が終わったらおしまいだけど、いい母親になれるんだったら、そんな簡単に離れることなんてないです。僕から見ても肝っ玉母さんになれそうな、そんな雰囲気は持っていますよ。とっても大事なことだと思います。だって理想で固められたら、こんなはずじゃなかった、もっといいものがあるはずだ、私の本当の姿はこれじゃないなんて、あれこれ考え出しますもの。そんなの絶対壊れるに決まってるんです。互いの苦労を了承できる関係が一番いいと思いますよ。こんなはずじゃなかった、なんてお互い思わないためにも、私は苦労を共にできる、苦労を納得しあえるっていうのが自分の理想よりも何よりも大事なことだと感じています」
僕結婚したことないんですけどね、なんて付け加え、きっとこんな風に好き勝手に酔っ払って、さもわかったようなうんちくを話す酔客など胸焼けがするほど見てきたのだなと思いながらも話した。
本当はみすぼらしい客なのに。
だからこそ、こうやって話術の中に取り込んでいくしか能がないのだ。
まさに「作家」なんてものはどんなところにも転がっていける「虚業」にも似たようなものなのだ。
いや、この場において、そんな考えを持ち出す必要さえなかった。
偶然とはいえ、その場所でよい経験をした。
それは、原酒を並べられたことと、店員と与太話をしたことだ。
その後二件目に行って、色々話をして、冒険する奴はほとんどいないという話を聞きながら、話の中に自分がこうしていることで、いずれ歯車ががっちりと合う日が来ると確信したような一日になった。
世もすっかり白み、明るみの中、家に帰り、行動の意味や意図すらも理解されぬまま、ぐっすりと寝た。
妙な夢を見たような、そうではないような、妙な気分に浸りながら起きる。
目に見えぬ何かは、確実に進んでいるのだと感じながら。
昼頃に起きて、去年録った写真を見る。
自然に笑っているあの子の顔。
作られたどんなものよりも自然で、夜間でぼやけていさえなかったら、本当によい写真だなと思うほど。
作られたものは理想的な「デザイン」の中にはあるかもしれないけれど、自然とはかけ離れている。
いつの間にか、そんな素朴な自然さが大好きになっていた。
「ありのままの姿」を捉えることは今の時代には難しい。
何故なら、情報というデザインの中でほとんどの人間の意識は突き動かされているから。
だから、ぼやけている写真を時間のある限り眺めていた。
その時間が、嬉しかった。
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