「共感」という言葉ほど実践において難しいものはない。
そもそも「共感」って何だ。これほどわかっているようで漠然としている言葉もないだろう。
個々によって「共感」する場所は違うし、レベルも違うし、繋がり方も違う。
そもそも自分自身の「共感」を説明できるのだろうか。
例えば「集団においては共感が大事だと思うのです」と言われたとして、集団としての一体感や共感とはなんだ。
人に不快感を与えず、その人間をやる気にさせ、かつ能力を十二分に伸ばせるような環境づくりと、成果を分かち合えるようなシステム作り、と言ったところだろうか。
作品における「共感」とは「面白いものを作ってください」だし、個人における「共感」とは「不愉快な気分にさせないでください」ということだろう。
それは守らなければいけないことなのだろうか。
いや、守らなければならない、という周囲の期待感のようなものがある。
そして取りまとめるような立場になったり、注目を集めるような立場になったりしたら余計に「あなたはこうしなきゃいけません」というような声も増えるだろう。
だがそれは正しいことだろうか。
新しいことを生み出そうとしている時、人を傷つけてはいけないし心理的な不安感を与えてはいけないし挫折感もなるべく他人が与えず自覚的に覚えていったほうがいい。
逆にタイプによっては無理難題を並べ立てられて悪戦苦闘して出てくる場合もある。
関わる人が増えれば増えるほど「共感」の内容が違ってくる。
変容を常日頃感じているのは多くの人間に注目されている人間であって、周囲は自分のままでよいのだから「共感」の内容が変わるとしたら己の生活や経験によってが一番だろう。
そもそも、本気で何かを作って発信したことがあるなら、そして数字を厳密に見ているのなら、「共感」は過去にしか存在しないことがよくわかる。
新しいことをやり始めると「共感」という定義すら吹っ飛んで、ほとんど実験状態になる。
何度も何度も失敗を繰り返しながら、99%ぐらいの失敗の上、ようやく見つかったりするものが多い。
そこは本当に失敗を重ねないと嗅覚が働いてこない。
知識だけ得て、その知識をすっと出したところで、なんら具体策もアイディアも存在しない。
その組織にあったベターなやり方は何なのか。
人によって組織が変わり続ける限り、ベストなんて絶対に存在しない。
これは創作の現場においても同じことだ。
なんでそんなこと言うかって、自分がこの「共感」ってやつを考えすぎてぶっ壊れそうになったからですよ。
「じゃあ受けるやつを学んでそれを自分なりにアレンジして出せばいいのかよ」
自分の創作の方向性を捻じ曲げてそれをやることが一番の近道だとよくわかっていた。
特に数字や成果を求められると本当にこの「共感」って言葉が心を病んでしまうほど重荷になる。
だから今はこういう風に考えている。
自分の場合はある人との出会いや歌舞伎との出会いなどによって心が変えられた。
だから、「自分の作品で誰か一人の人生でも好転させて影響力を持ち続ける」ということだ。
「一生忘れないものを与える」
これが、自分の目標だ。
「共感」という漠然とした言葉を考え始めると、また長年立ち止まってしまうことになるだろう。
組織における「共感」は私の場合「学びと成長」であればいい。不愉快だろうとなんだろうといい。それを与えられる数々の機会さえ設けられればいい。
創作における「共感」は私の場合「人生観を変える」ものであればいい。千人に否定されようと、たった一人だけでもいい。
仕事における「共感」は私の場合「美味い酒が分かち合えるよう最高の充実感を達成」できればいい。それが少なかったとしてもそれを目指したい。
ところで、これをお読みのあなた。
曖昧な言葉で思考を停止させてはいないだろうか。
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