年をとってそれなりの経験をすると、全部とは言わないが面の皮が厚くなったり精神的に耐性がついたりする。
私もこの記事を書いている時は30代半ばなので、年をとったなどという表現は上の世代から笑われるだろう。
でも私よりも、より多くの若い人たちがいて、さらに自分にはできない優れた才能を発揮する若者がいて、なんとかそういう才能を応援したいという気持ちも素直に生まれてきている。
本当にもっと若い頃は、自分のことを理解して欲しいという気持ちでいっぱいだし、自分の才能を認めてくれないのは見る目のないやつだと思っている頃があった。
プロの素質というのは、実力だけではない。
当然関わる人たちに対しての敬意や礼儀をきちんと保てるかという点も含まれる。
何故って敵を作るような反発的な態度は、必ずいざって時に足を引っ張る敵を作ることになるし、人間の心は本当に卑しいものだから、見下されたと感じたら仕返しをまず考え出すような恐ろしいものだ。
若いと自分だけの世界で成り立てるから、それがわからない。
そしてさらにわからなかったのは、実は思ってもみなかった人が、意外な人と繋がっていたということが多々ある。
人を尊敬するには、見えない良さを見つけることのメリットは、実はとてもある。
私は常々「努力は他者の手によってようやく報われる」と考えるようになった。
ここ最近でようやくわかってきたことだが、いかに努力しても認めてくれる人がいなければ、社会上ではその実力はないものと思っていい。
それが人の手によってようやく引き立たされるわけだ。
大人になると、相手の感情は大事にしたいが、だいたい二の次になる。
どこを重要視するかっていうと「行為」そのものになる。
人は感情で物事を創出しているわけではない。
その先にある「行為」によって全ての現実は成り立っている。
見る目のある人間は常に「行為」を重要視している。
だから感情を大事にする時もあれば、感情を無視してもよいのなら、そうする。
当然優れた大人ともなれば、他者の感情の扱いにおいては十枚も二十枚も上手だ。
この人にはかなわないな、とも思うし、完全に見抜かれている、という妙な脂汗も出る。
世の中には上には上がいる。
それがわからないのは、小さな世界にいることを自分で主張しているのだ。
私は最近とても嬉しく思った音がある。
謝りそうもない若者が謝罪の言葉を文面とはいえ出したことだ。
才能はあっても不安な要素はたくさんある。
別に見下されようが何されようが、相手の感情の問題なので私にとってはどうでもいいことだが、少しは進めたのかなと思えるところがあったから嬉しかった。
いつだって、命があり、常に己の才能を伸ばし続ける人間が歴史を作っていく。
その歴史の一翼を担う人間は他者を味方につける術を無意識にでも身につけている。
だから上にいける。
人間には欠点がある。
他人が到底認めないようなものも含んでいる時がある。
そういうものに実力があったとしても振り回される。
年寄りから見ると、どうでもいい個人の感情が、他者との関係を決める。
だから、どんな人間でも自分より優れた点があるのだという気持ちで人を見なければ、たちまち己が作った敵によって、あらゆる利益を阻害されるだろう。
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