生涯愛されることなど、一度でもあったら幸運だ。
そして愛されるということは、こちらも限りなく愛情か、それに代わる何かを与え続けていることが多い。
普通、人は自分の不利益になることは避けるし、辛いことも積極的に買って出たりしない。
だから「好き」はいつでも簡単に崩れ去って、次の「好き」になれるものを探し、相手も「好き」でいてくれたら、互いの「好き」が成り立っている範囲で付き合いだす。
この段階までは、まだ「取引」に似たようなやり取りがなされる。
「好き」と「嫌い」を天秤にかけて、「好き」の比重が多いうちは付き合うという具合だ。
よく言われる。
「愛する」とはなんだろう、と。
忍耐であったり、強さであったり、欲望を捨て去った悟りの境地のようなものであったり。
とにかく、あれほど簡単に崩れ去る「好き」に比べ、「愛情」は「嫌い」が多分に含まれていようと、そう簡単になくなったりはしない。
この段階まで来ると天秤の「嫌い」が大きく比重を占めようと、たいした問題ではなくなる。
見ていて、「愛情」と「好意」の明確な違いがある。
それは「自分の立ち位置を変えるかどうか」だ。
心に通った一筋の誠実さやポリシーのようなものは愛情を持つ上で大事だけれど、それ以上に「立ち位置」というのは、極端に言えば「自分の人生捨て去ってでも相手のためを想い、懸命に尽くすことができるのか」「今ある環境を、自分の持っている大事なものを犠牲にしてでも、相手を想ったり行動したりすることができるのか」という点において、「好き」とはまったく違うように感じる。
これが「好き」だと何かあった時「自分を守る」ため、相手の領域にまで身ひとつで立ち入らない。
自分の守ってきた領域からは出ずに、言葉や思いを投げかける。
本人は必死に相手のことを想っているのだろうが、そしてその想いから「私はこれほど考えているのに相手は何もしてくれない」と思いがちになるが、だいたいは「賭けているもの」が小さい。
何かがあっても破滅することはないし、その人がいなくなっても、ただ自分の人生は元通りで進む。
世の中には愛情を利用して搾取し続けるような人間もいる。
愛を求めるだけで愛することができない人もたくさんいる。
そして各々が考えている「愛情」の定義も大きさも違う。
だから愛情と見せかけた「好き同士の取引」がたくさんなされている。
愛しているつもりが、ただ自分の利益を守るだけに立ち振る舞っていることだって多々ある。
献身的に愛そうとして、ただ搾取されるだけで、愛することをやめた人だっていることだろう。
色々書いたが、最初は「取引」でよいと思う。
自分が愛情を注ぐにふさわしいのか。
自分の未来がなくとも、この人だけは幸せになって欲しいと思えるのか。
人の本質は言葉に左右されたり、持っている価値観に左右されたりはしない。
最初から持っていている。
どんなことを言われても、自分はこの人のために何かができるのか、与えられるのか。
「愛」は、語られるほど多くはないし、生涯で出会えるかどうかの貴重なものだ。
だからこそ、「愛情」から語り始める人間は、ほとんどが「愛情」を持ち合わせていないことが多い。
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