自分でも意識していたことだけれど「作品にインディーズっぽいコアな感じがする。メジャーじゃない。万人受けするんじゃなくて、なんていうのか暗い影が潜んでいる」と言われた。
明るい話を書こうとすると苦しみとか悲しみを入れたくなる。
なんというか、人生希望ばかり唱えていたら大変な目にあう。
というか、自分が人から叩かれることが多く、大人のスタートラインで思いっきりコケた感じなので、自分の青春に対する投影として作品ができているのかもしれない。
素直にリアリティを描こうとすると、良いことばかりを書けない。
どうしても「この世はいい人ばかり」と言われたら、言った人を鼻で笑いたくなるという、なんともひん曲がった精神が出来上がってしまった。
だからやたらと人にいいことばかり言う人を信用できないし、人間いつ心変わりするのかと最初から構えている。
要するに信じていないのだ。
人間の行動の一貫性というやつを。
当然この世界に完璧なものなどなく、誰しも長所と短所を同時に持ち合わせて生きている。
よく著名人に多くの人は、あたかも完璧に近いかのような能力を思い浮かべる。
有名になればなるほど「あの人は自分よりもはるかに優れているのだ」と思い込む。
それってどうしてなのかなと考えたけれど、現代社会は、特に会社人は「システム」の中で生きている。
システムをつくりそのシステムを利用することで面倒な、人によってバラバラになる価値基準を簡略化して処理しやすくしている。
つまり合理性のメリットとしてスピードを求め、その代償としてあらゆる複雑な、かつ個別で評価が分かれる面倒さを排除している。
よって統一化しようとするのも合理性のひとつであり、隙間を埋めようとするのも合理性の補助機能として生きている。
それらは長所をより持ち寄って生きているが、単体では生き残れないという性質を持つ。
これは人間と同じだ。
どんな有能な人間でも、一人では短所が目立ちすぎて生き残れない。
現代人はシステムの中で常に評価されて生きているから、自分より有名だったり稼ぎがあったりすると「自分より有能だ」とか、能力が劣っていると「なぜあんなやつが自分より稼いでいるのだ」と嫉妬する。
つまりシステムによってテストの順番のように「努力の成果によって評価され報われるはずだ」とどこかで思い込んでいる。
しかしまったくそうではない。
思い通りにはいかないし、思い通りにいかない故に人間は理不尽さを持ち合わせている。
理不尽さの正体は生活の中で慣れきってきたシステムをどこかで信じきっているせいではないのかと思っている。
人間は長所が優れていれば優れているほど、同時に短所を持ち合わせると考えている。
それは人間社会において長所が無限に増殖せず、増殖した分だけ短所を作り出しているのだという隠れたデメリットを、常にメリットを強調することで隠しているように、ひとつのごまかしやまやかしの中で常に自分を納得させているだけなのだという考えが根底にあるからだ。
よって、人間は希望だけを抱いて生きてはいけない。
よって、人間の希望だけを説く作品を書く事に違和感を持つ。
よって、己の欠点は人間の希望を信じきることができないということだ。
よって、作品に影を落とすことになる。
こう書くと自分は、ただ自分が救われたいために小説を書いているのではないかという、小さな、本当に小さな真実にぶち当たることになる。
そうではないと思い込みたいふしはあるが、実際ただ自分のためだけに書いているのかもしれない。
自己満足のために。
もうそれでいいとも思い出している。
高尚なことを言ったとしても、もしこの先祭り上げられることがあったとしても、自分は常に自分に打ちのめされていくに違いない。
自分の小ささに。
そしてその小ささを誰かに押し付けながら生きていく。
先日偶然名を残した作家や芸術家が絵を用いて「美を語る」という映像を見つけた。
その時フランシス・ベーコンの絵に最も共感を得た。
こういうところも「影」なのだろうが、気がついたことは技術はもちろん大事だ。
それよりももっと大事な根底は「発想」そのものだということを忘れていた。
技術を用い、誰かを意識しすぎることで、「発想」そのものが貧困になり、媚びていくようになる。
これではいけない。
技術はあくまで「発想」を乗せて走らせていくための手段でしかない。
それがいつのまにか、技工そのものが優れていれば、それは素晴らしい作品なのだと評価されるようになる。
だが、技術があっても「発想」がなければどうしようもない。
宝の持ち腐れになる。
結局、基本となる「自分」を通して作品を作っていくしかない。
そうやって自分のスタイルを作りながらあたかもそれが普遍的であると信じて生きていくのだろうな。
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