「奥山貴宏って知ってる?」
と、聞かれて「知らない。誰?」と言うと、有名なライターで33歳で癌によりこの世を去った人だと言う。
聞いてきた人は、今私が何をやろうとしていて、どんなものを書いているのかよく知っている。
「もし、100歳まで生きれて、それまで一切小説が出ずに健康に生きられるのと、すぐ死ぬけど作品が世に出るのとどっちがいい?」
考えるまでもなく、すぐ死ぬほうを選ぶと答えた。
商業作家でもない限り、作家をやろう、作品を作ろうという気持ちの中には、使命感がある。
それは前にも書いたけれど、ある意味勘違いかもしれないし、自惚れかもしれないし、いずれにせよ、社会に対するあるメッセージを抱え、それを伝えられるのは自分しかいないのではないかという気持ちがどこかにある。
その上で作家としての名声や、金、それがあると作家活動がしやすくなる。
社会に対する鋭い疑問点や、まったく誰も見ないような側面から人間を捉えて、こういう一面もあるのではないですか?そうなった時どうするんですか?どう思いますか?
作家は常に読者に投げかけを求めていて、発信しようと試みている。
そのうえで対人でうぬぼれがあるとしたら、もう作家としての使命は果たしづらい。
そして何よりも時期がある。
この時期に考えておかなければ、次が続かない。
それは思春期のある時点であったり、10年ごとの節目であるかもしれない。
本当によい作品とは、読者と一緒に苦悩し、読者以上に自らを痛めつけている。
練磨、研磨。
よい輝きを放つには傷をつけなければいけないのは当たり前のこと。
ゆえに発信者であると同時に自己破壊者でもある。
次を書く気がない。
同じものしか作れない。
取材もしないようなやつを軽々と先生なんて祭り上げるようなこのご時勢。
ヤクザ家業みたいな出版社。
正統派を残していけないのは、本当に人間への直観力が優れている才能を文学賞で拾えないから。
いずれは国語問題にも発展していく大事なことなのにね。
よく作家のことで「人間性」を取り上げる人がいるけれど、残念ながら人と違って突出した部分のある人間ってたいていは「おかしい」と思われるタイプが多い。
人と目線が同じであるという「公共性」の感覚はとても大事だけれど、それは作品で出ていればいい。
作家をやっていくということは、ライターとは違う。
作家であるということは、破壊者でなければいけない。
使命感のないやつに金を与えたって、自分のためにしか使わないだろ。
奥山貴宏という人は、ほぼ死の直前にライターから小説家として作家デビューしたそうだ。
私がその友達に今自分が持っている作家としての価値観を言うと「その人もそう書いていた」と言った。
今生きていれば40歳くらいだそうだ。
どんなことになっても、私は最後まで書いているかもしれないなと思う。
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