自分への自負心というものが傲慢から来るものか、自分の弱さを補うために出しているものかは、他人にはわからない。
でも、己にとってはとても重要なことで、他人には傲慢に取れると知っていながらも、自分を勇気付ける必要性がある。
完全な傲慢であれば、身を持ち崩す。
執念にも似た信念を持ちえなければ、大きな物事はなしえない。
自負には、畏怖がついていなければ、自負にはなりえない。
なぜなら、恐怖を知ってこそ、向かうことのなんたるべきかを知るのです。
攻撃は最大の防御と言います。
しかしまた、防御も最大の攻撃とも、オリンピックソフトボールでの中継で出ていました。
戦うべき力を蓄えること・守り抜くことで、戦い続けることができる。
これは防御の視点です。
圧倒的な攻撃によって隙を作らないのか、防御のバランスを保ちながらチャンスを見つけるのか、時と場合によって分かれるかもしれませんが、攻撃し続けることができるのは、あくまで短期期間での勝負、長期は防御も入れなければいけません。
自分が何者であるのか、何ができるのか、どうしていく選択肢を持ちえるのか、どう思われているのか、そういうことを考えられなければ傲慢になります。
信念は、誇りを持ちえる前に持たなければいけません。
信念を達成して、誇りを持ちえます。
しかし、他人を巻き込む信念は、人間が持ちえる最大の凶器となることも知っていなければいけません。
誇りとは、他人を守りえるものです。
己だけではなく、己の大事にしたいものを共有しているものも取り込んで守っていくものです。
それが誇りになりえます。
浮かないようにしたいもんだなぁ・・・
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